ジョセフ コンラッド。 「子どものほうが外国語学習に有利」はホント? 年齢、環境と英語学習の関係

20170714 ジョゼフ・コンラッドとポーランド

ジョセフ コンラッド

新訳でコンラッドの『闇の奥』を読む。 『闇の奥』にはいくつかの邦訳が存在する。 一番よく知られたものは中野好夫訳による岩波文庫版で、初版が1958年に発行されている。 書庫を探すと私も一部所持していた。 名高い小説であるが、読み通した記憶はない。 今回初めて通読するにあたって両者の解説を読んでみたがいずれの訳者も翻訳の難しさについて縷述している点が印象的だ。 新訳の訳者はいくつかの具体的な例を挙げ、これまでの翻訳と比較しながら自分が最終的な訳文を採った理由を説明している。 中野にいたっては岩波版以前に自らが訳した日本初訳となる河出書房版について「正直にいってたいへんな難物だった。 旧本の読者諸氏にはまことにすまぬ話だが、相当の誤訳のあることも十分予想できたし、まことに自信のない話だった」とそこまで言ってよいかと感じられるほど正直な感想を述べている。 新訳を読んでから中野の訳にも目を通してみたが、活字のポイントがきわめて小さいことと、語りの途中でむやみに引用を示す括弧が用いられていることを除いて(この二点が読みにくさの最大の理由であるが)さほど差があるようにも思えない。 もちろんそれは私が一度読み通して物語の全体を理解していたためであるかもしれない。 前置きが長くなった。 今回の訳者は黒原敏行。 コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』という難物を途切れることのない緊張感の中に訳した練達の若手である。 コンゴ川を遡る暗澹とした道行きは『ザ・ロード』を連想させないこともない。 物語の構造はさほど複雑ではない。 物語はテムズ川に停泊する船上における乗組員マーロウの語りとして記述される。 テムズ川とコンゴ川、二つの川の間をたゆたうように、語りも現実と回想の間を往還する。 マーロウは若い時、ベルギーの貿易会社に雇われ、現地で殺された前任者の仕事を継ぐためにコンゴに向かう。 コンゴ川の出張所で故障した蒸気船の修理を待つ無為の時間、マーロウはアフリカという野生に直面する。 人を拒む密林と暗い川、意志の疎通を欠いた黒人たちと病気で次々に命を落とす白人社員たち。 コンラッドの文章の濃密さは翻訳でも十分に堪能できる。 出張所でマーロウはクルツという謎めいた人物の存在を知る。 大量の象牙を出張所に届けながら、自身は姿を隠し密林の奥で隠然たる権力をふるう男。 クルツが病床にあるという情報に基づき、マーロウはクルツを審問すべくコンゴ川を遡る。 困難な航行と蛮族の襲撃。 操舵手を失い、ようやく奥地の出張所にたどり着いたマーロウはクルツに仕えるロシア人青年、そして瀕死の床にあるクルツに会う。 クルツは婚約者への手紙や写真をマーロウに託し、最後に「The horror! The horror! 」という謎めいた言葉を残して息絶える。 物語の粗筋を知ったとしてもこの小説の魅力が減じることにはないだろう。 密林を連想させる濃密で粘着的な物語を読み進むこと自体がコンゴ川遡上の比喩であるかのようだ。 今日、この小説は多様な読み方が可能である。 もちろん現地人に対する白人の蔑視や暴力を理由に人種差別的な小説と批判することも可能であるし、逆に植民地主義への批判ととらえることもできよう。 あるいはポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた我々は(女性はほとんど登場しないにせよ)ジェンダーや階級、あるいは資本主義、帝国主義といった様々な函数を介して分析することも可能であろう。 しかしながら私はそれらの明晰な解釈に抗う異様な晦渋さこそこの小説の本領ではないかと感じる。 この点はクルツなる人物の造形に関して明確となる。 密林の奥に君臨するクルツがこの小説の影の主役であることは明らかである。 詩を朗誦し、深い教養を備え、ロシア人青年に信奉されるクルツの正体は最後まで明かされることがない。 クルツのみならず物語全体を一種の不透明さが覆っている。 このような不透明感は内容のみならずおそらく文体そのものに起因しており、幾多の翻訳者を悩ませたゆえんであろう。 残念ながら私はコンラッドのほかの小説を読んだことがないが、このような難解さが本小説のみに指摘される点は、それが意図的に導入されていることを暗示している。 視覚的な比喩となるが、私はこの小説を読みながらさながら背後を見透かすことができないほど樹木が繁茂する川面を蒸気船で往航するような印象を受けた。 手近の岸や叢ははっきりと識別できるのに対して、その背後、奥を見通すことができないのだ。 個々のエピソードは比較的明瞭であるが、全体としてのストーリーの展開は不明瞭で方向が定まらず、全体を見通す奥行きが失われている。 Heart of Darkness の邦訳タイトル「闇の奥」の当否については異論もあろうが、以上の点を勘案するに十分に喚起的な言葉が選ばれているように感じた。 よく知られているとおり、フランシス・コッポラはこの小説を翻案して「地獄の黙示録」として映画化した。 19世紀のコンゴはベトナム戦争下のインドシナに置き換えられていたが、両者は深いところで結ばれている。 今述べたとおり、これらの作品は人が西欧的な合理性の埒外にある晦渋、不透明性と出会う物語である。 アフリカやインドシナはそれぞれ植民地時代のヨーロッパ人、1960年前後のアメリカ人にとって自らの理解を超えた外部である。 西欧が外部に直面した際、どのような反応を示したか。 『闇の奥』の随所に暗示される植民地への暴力的支配、あるいは「地獄の黙示録」中、サーフィンに便利な立地であるという理由で一つの村落をナパームで焼き払う挿話はこの問いへの応答である。 これに対して、コンラッドはクルツというきわめて独特の人物を造形し、今まで非合理対合理あるいは未開対文明といった外面的な対立としてとらえられてきた両者の関係を登場人物に内面化することに成功している。 アフリカという絶対的な他者と出会う中で次第に内面を崩壊させるクルツというパーソナリティはコッポラのフィルム中でマーロン・ブランドが演じたカーツ(いうまでもなくクルツの英語読みである)大佐においてさらに深められ、一方、『闇の奥』におけるマーロウの役回りである「地獄の黙示録」の主人公ウィラード大尉もカーツを追ってメコン・デルタを遡航する過程で次第に精神を失調させる。 ここにおいて、文化衝突がもたらす「闇の奥」Heart of Darknessは人間精神のそれへと転じるのである。 19世紀にはアフリカが「闇の奥」であったかもしれない。 しかし今日なお私たちは同様の文化衝突をさらに殺伐としたレヴェルで繰り返している。 アメリカにとってのアフガニスタン、あるいはロシアにとってのチェチェンを現代の「闇の奥」と呼べないだろうか。 おそらく「闇の奥」は時代と無関係である。 いつであろうと、人にとっていかなる共感も交流も成立しえない絶対的な他者が存在し、それらと直面することは直ちに自らの内部に「闇の奥」を生ぜしめる。 クルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」(あとがきにもあるとおり、これは中野好夫による翻訳。 黒原訳は「怖ろしい!怖ろしい!」。 ただしこの部分に関しては中野訳の方が適切であるように思われる)とは、絶対的他者の前であっけなく否定された啓蒙や進歩といった西欧的価値の断末魔の叫びであるように感じられる。 そして20世紀以降も私たちは一体どれほど多くの地獄を体験してきたことか。 ヒューマニズムの対極に存在する、かかる暗鬱な認識を白日のもとにさらして、刊行後一世紀以上経った今も『闇の奥』は古びることがない。 蛇足かもしれないが 最後に一つだけ付言する。 本書を通読し、私はアフリカの密林を舞台に同様の黙示録的世界を描いた小説としてJ. バラードの『結晶世界』を想起した。 同じイギリスの作家によって発表されたSFならぬスペキュレイション・フィクションは果たしてコンラッドの嫡子であろうか。

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1070夜『闇の奥』ジョーゼフ・コンラッド

ジョセフ コンラッド

「ジョセフ・が書いているように、真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。 」 (「かえるくん、東京を救う」『はじめての文学 』( 2006)より引用) 今年最後に紹介する小説は、 の短篇小説「かえるくん、東京を救う」です。 もう何年も前に読んでからずっと好きな小説のひとつだったのですが、しばらく読み返していませんでした。 それで、最近ふとしたきっかけで再読してみたら、思っていたよりもずっと素敵な小説でした。 読書をしているとこういう再発見があって嬉しいですね。 ざっくりストーリーを説明してしまうと、小説の主人公である片桐がアパートの部屋に戻ると、巨大な蛙が彼を待っていて、三日後に東京を襲う首都を防ぐのに力を貸してほしいと頼まれる。 かえるくん(蛙は自分のことは常にこう呼んで欲しいらしい)によると、の原因は地下にいる「みみずくん」であり、怒りを爆発させてを起こそうとしているのだ。 「みみずくん」と戦ってを未然に防がなければならない……。 初めて読んだ時に「かえるくん」というキャラのあまりの可愛さに萌えた記憶があります(笑)片桐が「かえるさん」と呼びかけるたびに「かえるくん」と一々訂正してくれます。 それから文学通です、かえるくん。 「 が驀進(ばくしん)してくる機関車に勝てる確率より、少しましな程度でしょう。 」(前掲書243頁より引用)など、面白い文学ネタ表現がたくさん出てきます。 「もちろんごらんのとおり本物の蛙です。 暗喩とか引用とかとかサンプリングとか、そういうややこしいものではありません。 実物の蛙です。 ちょっと鳴いてみましょうか」(227頁より引用)と、自分の存在を説明しているところも面白いですね。 文学を語るのに使われるようなちょっと難しそうな専門用語(?)を羅列して、そういう「ややこしい」存在ではないとのこと。 ちょっと親近感のわいてくる自己紹介です。 「かえるくん、東京を救う」は、後にラジオで朗読されるなど話題になったので、記憶に新しい人もいるかもしれません。 前掲書のあとがきにあたる部分に「かえるくんのいる場所」というの文章があります。 それによるとこの作品は1999年に書かれたもので、1995年に起こったのアフターマス(災害後に残った余波的な危機)をテーマにした連作短編のひとつだそうです。 一部をそのまま引用しておきます。 「そのような多くの人々の死にかかわる重い題材に、何年ものあいだ作家としてとりくんできた。 そんな中で僕は、このようなひどく現実離れのした、ある意味では荒唐無稽なファンタジーを書かないわけにはいかなかったのだ。 現実から目を背け、どこかに逃避するということが目的ではない。 むしろ逆で、今ここにある現実にもっと深く突っ込んでいくためには、物語という通路を使って、このような心の「とくべつな領域」に下りていく必要がどうしてもあったのだ。 それはかえるくんが実際に住んでいる領域である。 」 (前掲書「かえるくんのいる場所」267頁より引用) 冒頭に引用した作品の部分「 真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。 」というのがこの小説が「現実にもっと深く突っ込んでいくために」とても大切な認識であるということが、作品を読むとわかります。 結局のところ「かえるくんと片桐」VS「みみずくん」の地下での戦いそのものは、夢なのか現実なのか判然としないままに終わります。 首都を防ぐことに成功します。 「いずれにせよ、すべての激しい戦いは想像力の中でおこなわれました。 それこそがぼくらの戦場です。 」(250頁より引用、かえるくんの台詞の一部) 「みみずくん」との戦いの他にも(というか、片桐は「みみずくん」との戦いを記憶していませんが。 )、片桐は恐怖にさらされます。 拳銃で撃たれたとか、目の前で「かえるくん」がグロテスクに崩壊していくとか。 だけれど、それを客観的事実として証明する手段がひとつもありません。 それどころか拳銃で撃たれたという片桐にとっての事実は、どうやら間違いで、彼は単純に倒れただけらしい、と病院の看護師は言います。 片桐が経験した恐怖すべてが片桐自身の想像力によってつくられた恐怖の視覚化であるかのような描写です。 物理的には何も起きていない、だけれど確かに怖かったという実感がある。 「みみずくん」の姿でさえ、実はほとんど誰もみたことがありません。 あるいは 「みみずくん」という存在も、想像力が生み出した存在のひとつに過ぎず、そしてそんな想像力に打ち勝てるのは想像力が生み出した物(かえるくん)だけなのです。 「みみずくん」は名前もわからない多くの、不特定多数の人々によって生み出された存在かもしれません。 それに対抗するためには「かえるくん」だけでは力が足りず、どうしても想像する者としての片桐(あるいは読者全員?)が必要だったのです。 実際多くのことが我々人間の「想像力」によって可能になってきました。 良い事ばかりではなく「想像力」は多くの物理的現象を引き起こし、我々の目の前に提示したりもします。 「かえるくん」という存在は、物語の最後のほうで、損なわれ、失われてしまいます(作者は「もともとの混濁の中に戻っていった。 」とも書いています)。 損なわれ、失われてしまった「かえるくん」の代りに、私は2016年も頑張って小説を書き、いろいろなことを語り続けたいと思います。 「すべての激しい戦いは想像力の中でおこなわれました。 それこそがぼくらの戦場です。 」かえるくんのこの言葉を胸に。 そんなわけで、来年もよろしくお願いいたします。 皆様良いお年を。 読んだことのない人でも、とっつきやすい短編集がこちらです。 私はこれで「かえるくん、東京を救う」を読みました(笑).

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20170714 ジョゼフ・コンラッドとポーランド

ジョセフ コンラッド

本作は、『キャッツ』や『オペラ座の怪人』を生み出した作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーと、『エビータ』『ライオンキング』などの作詞を手掛けたティム・ライスが、まだ学生時代だった頃に初めてタッグを組んで生み出した、両巨匠の原点ともいえるミュージカルです。 イギリス・ウェストエンドで上演された際も好評を博し、1982年のトニー賞にノミネートされました。 旧約聖書「創世記」の「ジョセフの物語」をベースに、波乱に満ちたジョセフの人生が全編楽曲で綴られます。 数奇な運命を辿るジョセフの人生に相応しく、ロック、バラード、シャンソン、カントリー、ロカビリー…と、実に多彩で様々なジャンルの楽曲が演奏されます。 天才作曲家がまさに誕生した、瑞々しい希望に満ちた作品です。 カナンの地に住むジョセフは、12人兄弟の11番目で父ジェイコブが贔屓する一番のお気に入り。 ある日、ジョセフだけに父からカラフルなコート(=テクニカラー・ドリーム・コート)を授けられたが、残る11人の兄弟から妬まれてしまい、策を講じられて奴隷として売り払われてしまった。 奴隷となってエジプトで暮らすことになったジョセフだが、持ち前の真面目さで献身的に仕えるうち、主人に信頼されていくように。 しかし、主人の妻から一方的に想いを寄せられたことがきっかけで、投獄されてしまう。 牢獄でジョセフは、"夢を読み解く"能力を生かして登りつめていき、ついにはエジプト国王に仕える立場になっていたある日、かつて自分を売り飛ばした兄弟たちがジョセフの前に現れて…。

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