市川いっかさつがい 犯人。 市川一家4人殺人事件の当時19歳の関光彦の死刑が執行 ネット民「このクズの死刑は当然だね」

2018年10月

市川いっかさつがい 犯人

この項目を編集される方へ: テレビ番組を出典として記述を行うことは避けてください。 もご覧ください。 世田谷一家殺害事件 正式名称 上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件 場所 ・3丁目23-7 標的 経営コンサルタント会社社員住居 日付 (12年) - 23時ごろ — 深夜から未明に掛けて 概要 一家4人が殺害された 懸賞金 最大2000万円 (「」も参照) 原因 不明(捜査中) 攻撃手段 による刺殺(計2本: 内1本は犯人のもの)および手による絞殺 死亡者 44歳男性 41歳女性 8歳女児 6歳男児 犯人 不明(捜査中) 動機 不明(捜査中) 対処 捜査中(対象) 遺族会 (宙の会) 管轄 () 世田谷一家殺害事件(せたがやいっかさつがいじけん)とは、(12年)12月30日深夜に上祖師谷で発生したの通称で、による事件の正式名称は「 上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」である。 本件では一家4人が自宅で何者かによって殺害されたが、未だにの特定やには至っておらず、となっている。 また、対象事件にも指定されている(詳細は「」を参照)。 事件の概要 [ ] 2000年(平成12年)23時ごろから翌のにかけて、東京都世田谷区3丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。 隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分すぎに発見し、事件が発覚した。 この事件は、最後の日に発覚した、に差しかかろうとする年の瀬の犯行だったこと、犯人の・など個人を特定可能なものや靴の跡()のほか数多くのを残している点、子どもまでもめった刺しにする残忍な犯行、さらに殺害後に長時間現場に留まった可能性が指摘され 、を触ったりを食べたりするなどのの異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。 また、年の瀬に発生した殺人事件ということもあり、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると警視庁による情報公開が行われ、が話題に取り上げることが多い事件である。 犯人の手がかり [ ] 後節の「」も併せて参照 犯人の特徴 [ ] 以下に犯人の特徴を列記する。 詳細については「」および「 」も参照のこと。 犯人は犯行時に手を負傷しており、そのときに現場に残されたからは ということが判明している(殺害された一家にA型の人間はいない)。 また、同じく血液から犯人のが であることも分かっている。 血液からはや、などの反応は出ていない。 また、も吸わない人物である。 宅のにあったには手がつけられていなかった(一方で、犯人は冷蔵庫のを飲んでいる)。 被害者の傷跡などから犯人は の可能性が高いことが分かっている。 犯人の指紋はである。 指紋は被害者宅から十数個 発見されている(過去のの指紋データと合致しない)。 服装などから犯人は 170センチ前後の可能性がある。 また、ヒップバッグのベルトの長さから胴回りは70〜75センチの やせ型と推定されている。 警視庁がまとめた犯人像に1965年から85年生まれ(事件当時15歳から35歳)というものがある。 これは、犯人が2階の浴室の窓から侵入する際、のフェンスから2階の窓まで上っているなどの身体的理由によるものである。 一方、2018年5月には現場に残されていた遺留品のうち、犯人が長期間使用していた形跡のあるヒップバッグの販売期間(1995年9月〜1999年1月)・内容物(時代によく使用されるなどの痕跡)・ベルトの長さ(長さ83センチで胴回りは70〜75センチと推定)やマフラーのサイズ(長さ約130センチで10代半ばの平均的な首回りにフィット)などから、警視庁が犯人像を「 事件当時15歳から20代 の細身の男性」に絞ったことが明らかとなった。 上記の遺留品については後述の「」および「」も参照。 また、警視庁より2018年5月に公開された情報の詳細については警視庁特捜本部サイト内の「」を参照のこと。 警視庁の2,000を越える犯罪者指紋データからこの犯人が特定できないことから、この犯人は犯罪歴がない可能性があるとみている。 犯行時の行動などから、性格は大胆で図太いながらトレーナーを畳むなど几帳面な部分も持ち合わせている。 DNA [ ] 現場に残されていた血液のからルーツをたどる的解析により、父系が系民族、母系には系()民族が含まれることが判明( )した。 「には少ない型」とする専門家の声もある( )。 なお、南欧系の祖先は的に見て遠くない祖先の可能性が高いが、DNA型から犯人とのは判別できないため、犯人の母親が南欧系の女性かは不明である( )。 では犯人が「アジア系含む日本国外の人」または「の日本人」である可能性も視野に入れてしている。 また、(ICPO)を通じ、日本国外のに捜査協力を求めている( )。 一方で、人種に関するが捜査に適用されるのには前例がなく、ずっとさかのぼった祖先が混血だった可能性も否定できないため、「犯人が純粋な日本人である可能性も否定せずに、国内でも幅広く捜査する」方針( )。 指紋 [ ] 親指の指紋(渦状紋)は、中心に豚の鼻のような2本の線がある。 犯人の行動 [ ] 被害者宅の構造 [ ] 玄関を入るとすぐにがある。 被害者宅1階部分のほとんどを占めるこの書斎は、父親が仕事部屋兼、子どもの学習部屋として使用していたものであり、約6万円が手つかずで残されていた大きな本棚や犯人がを閲覧した形跡のあるパソコンも置かれていた。 2階への階段脇には浴槽に散乱していたの一部がもともとあったとみられるもある。 さらに、トイレや洗面所、犯人の入出経路とされる浴室、長男が殺害されていた子ども部屋、バルコニーがある中2階、台所やダイニングルームとその奥の犯人によって物色されていた居間がある2階、そして母親と長女が寝ていた(ロフト、3階)の4層構造になっている。 本記事では中2階と2階を区別なく「2階」と表記している。 なお、屋根裏部屋へは折り畳み式のハシゴを降ろすことにより、中2階の踊り場(洗面所付近)から上ることが可能となる。 また、犯人の横歩きの足跡は「1階から中2階間」の階段についており、「中2階から2階間」の階段は4段のみである。 このほか、隣家の親族宅と外観では接続しているようにも見えるが、内部的にはしっかりとした壁で隔たれておりつながっていない。 一方、3種類の粉末が発見された車庫は事件発生時にが閉まっており、犯人が侵入した形跡はなかった。 車庫前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、事件直後のニュース映像では、一家所有の車がこのスペースに置かれているのが確認できる。 12月には、で作られた被害者宅のを警視庁が公開した。 この模型は事件の捜査にも活用される。 入出経路 [ ] 被害者宅の裏側は公園になっている(2010年10月撮影) 犯人の入出経路は、被害者宅の裏(公園側)にある2階浴室のとみられている。 あるいは、侵入口(普通に被害者宅を訪れた可能性もある)は玄関であった可能性も指摘されている。 浴室の窓は開いており、は外にはずれ落ちていた。 また、窓の真下の地面辺りから犯人の靴跡とよく似た大きめの足跡が発見されており、同じく窓の真下の公園フェンス付近の木の枝も折れていた( 読売新聞 2002年12月28日付)。 特別捜査本部が検証した結果、若者なら2階の浴室から無理なく侵入可能なことが明らかになっている。 発見時に玄関の扉のは閉まっていた( 毎日新聞 2001年1月29日付)。 また、玄関のドアのノブなどから犯人の痕跡(指紋や血痕など)も発見されなかった。 一方で、玄関の痕跡については、駆けつけたや員によって踏み荒らされてしまったという( など)もある。 また、犯人が着ていたと思われる遺留品のに擦った痕がないという報道や、浴室の窓などから痕、擦れた跡が発見されていないという報道( 週刊文春 2009年1月1日・8日新年特大号)もある。 さらに、被害者宅に残っていた血のついた足跡が階段の途中から上りの一方向のみだったことから、「玄関から靴を脱いで侵入し犯行に及び、床が血だらけになったため階段の途中で再び履いた」という警察幹部の見解もあった( 産経新聞 2002年12月19日付)。 殺害時 [ ] 被害者のの内容物などから、殺害の推定時刻は30日23時30分ごろとされている。 犯人は2階子ども部屋の二段ベッドで寝ていた長男を殺害後に、異変に気づき2階に上ってきた父親を襲い殺害、最後に屋根裏部屋(3階)で寝ていた母親と長女を襲って殺害したとみられている。 なお殺害時かは不明だが、犯人が子ども部屋の二段ベッド付近や階段の移動時に壁に背中をつけるなどして、などで習うような横歩きをしていたことが足跡からわかっている( )。 被害者の状況 父親の遺体は1階の階段下、母親と長女は屋根裏部屋下の2階踊り場付近で発見されている。 さらに、屋根裏部屋の布団から母親と長女の血液が発見された。 父親、母親、長女は全身負傷していた。 長男は手で首を絞められたことによる死とみられており、そのときにできた圧迫痕やからの以外にらしきものや犯人の血痕などは見つからなかった。 また、父親の頭部にの破片が残っていたという報道もある。 母親と長女は顔や首を中心に上から切りつけられていたが、父親は()やなども切りつけられていた。 女性被害者は何度も刺されていたという情報もあり、被害者の性別によって殺され方が異なっていた可能性もある。 死後も執拗に何度も刺していることが明らかになっている。 現場に長女の血のついたが落ちていたことから、犯人は母親が負傷した長女の手当てをしているのに気がつき再び襲った可能性がある( )。 長男は二段ベッドの下段にてうつ伏せの状態で、布団が被せられていた。 後述の「」も参照。 殺害に使用した凶器 犯人が持ってきた柳刃包丁の刃が最初(父親殺害)の犯行時に数ミリ欠けたが、その後には完全に折れたことから被害者宅にあったもとして使用されている。 血痕から母親と長女は先端の折れた柳刃包丁で傷を負わされた後に文化包丁で殺害されたことが分かっている( )。 殺害後 [ ] パソコンの通信記録から、犯人は侵入の翌朝まで10時間以上にわたり被害者宅に潜んでいた可能性があったが、現在ではのように1度目のネット接続(午前1時18分ごろ)以降、犯人が夜間のうちに逃走した可能性も出てきている。 犯人は被害者宅のを抜いていたため、電話が通じず不審に思った母親の実母が被害者宅を訪問、呼び鈴を鳴らしても反応がないため合鍵で中に入り事件が発覚した( 産経新聞 2002年12月19日付)。 なお、2000年分のだけなくなっていたことから犯人が持ち去った可能性があると報じられていたが、になってから、が聞き込み捜査のために持ち出し、そのまま返却していなかったことが公表されている。 犯行時に負傷した傷の手当て 犯人は犯行時に右手を負傷している。 現場では救急箱が物色されており、犯人の指紋が付着した絆創膏、血痕が付着したなどが2階のに散乱していた。 の1枚は傷口に当てたあとで剥がし、居間にあったノートの裏に貼りつけていた。 また、で止血を試みるなどした形跡も残されていた。 アイスやお茶などの飲食 4人を殺害したあとに、犯人が被害者宅の冷蔵庫からの(麦茶)や、アイスクリーム(少なくとも)4個を取り出して食べた形跡が残されていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 アイスの容器は2階の浴槽と居間のの上からそれぞれ1個ずつ発見され、1階のパソコン脇にあった2個は食後に重ねられていた(この2個は紙袋に入っていたという報道もあり)。 2階台所と流し台のの上にあったアイスの容器は食べかけで誰が食べたものか特定できなかった( )。 このほか、台所には犯人の唾液がついた(お茶を飲む際に使用)も置かれていた。 また、犯人が被害者宅の物色中にを噛んでいたことも分かっている。 一方で、冷蔵庫にあったビールや冷蔵庫横の10本は手つかずの状態で残されていた。 このため、犯人は飲酒をしない(ビールを飲まない)人物である可能性がある(による逃走への影響を考慮し、意図的に飲まなかった可能性もある)。 犯人はアイスのカップを握りつぶして食べていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 また、犯人が直接かぶりついたためアイスに歯型が残っていたという報道もある。 [ ] 被害者宅の物色と浴槽での作業 2階の居間では、にカード類(など)、その近辺にはやの、などの分かる書類などが仕分けされていた( )。 また、戸棚や机などのほとんどの引き出しが下から順番に開けられ物色された形跡があり、これは空き巣特有の手口でもある。 2階の浴室では、浴槽の中に父親の仕事関係の書類や、母親の塾の書類、前述の止血をしたとみられる生理用品、タオル、アイスのカップなどが散乱していた。 このことから犯人が家の中を物色して不必要な物を浴槽に捨てたことが考えられる(浴室の中で仕分けしていた可能性もある)。 さらに犯人は、1階の納戸から浴槽に散乱していた書類が入っていたとみられる引き出し1段を2階のトイレ前まで運んでいた( )。 また、浴槽に散乱していた書類や広告などはや手で引きちぎられていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 トイレの使用 犯人が被害者宅のを使用し、トイレの中で被害者宅にあったバッグを物色した形跡があった。 「」によると、の中からとが検出されたという。 ( )によると、トイレに残されていた大便の一部からのが検出された。 これは、被害者一家の胃の内容物やとは異なっている。 リビングで仮眠 犯人が2階居間のソファでした形跡が残されている( )。 パソコンの操作 [ ] 犯人が1階の書斎にある被害者のを操作した可能性がある。 通信記録を解析した結果、犯行時刻直前とみられる30日22時20分から50分ごろまで触れた形跡(22時38分から45分ごろのパスワードつきの送受信記録や同50分ごろのパソコンの電源を切った記録など)があり、これは被害者がまだ生存しておりインターネットを閲覧していたものと考えられる。 しかし、犯行時刻以降でも2度(31日午前1時18分ごろと午前10時5分ごろ)にわたりインターネットに接続されていたことが判明した。 2度とも接続時間は5分程度と短かった。 一方で、から犯人の指紋が検出されたが、からは検出されていない。 パソコンのは発見時には抜け落ちていた。 犯人がパソコンを操作していたとすると、犯行時刻の23時30分ごろから、母親の実母が一家4人のを発見する数十分前にあたる午前10時すぎまで、犯人は半日近くもの間、被害者宅に潜んでいたことになるとされ、これまで犯人の逃走時刻を推定する有力な証拠となっていた。 しかし再現実験を行った結果、マウスが落下するなどの衝撃でインターネットに自動接続する可能性があることや、2度目のネット接続(午前10時5分ごろ)では被害者の会社のホームページが表示された以外の履歴がないことから、1度目のネット接続(午前1時18分ごろ)以降、犯人が夜間のうちに逃走した可能性が高まったと2014年12月になって報道されている。 接続先は被害者の会社のサイトから、大学の研究室のや(現・)のサイトなど専門色の強いサイトまで含まれていた。 また、犯人は(被害者があらかじめインターネットブラウザの"お気に入り"に登録していた)の舞台チケットを予約しようとして失敗した可能性がある。 1度目の接続(午前1時18分ごろからパソコンを5分18秒起動)では空のフォルダを作成して劇団四季のサイトにアクセスしており、2度目の接続(午前10時5分ごろからパソコンを4分16秒起動)では被害者の会社のサイトなどにアクセスし最後に強制終了していた( )。 当初はこれらの通信記録が犯人によるものではなく、インターネットのサイト情報を自動的に拾ってくる「」によるものという見方もあったが、同端末に組み込まれたソフトでは機能上アクセスできるのは各サイトのトップページのみであり、実際にはサイト内のコンテンツも閲覧された履歴が認められ、再現実験の結果プラグも人為的に引き抜かれた可能性が大きいとされた( 読売新聞 2002年12月28日付)。 逃走後の足取り [ ] 被害者宅のすぐ脇は、の側道が続く(2010年10月撮影) 犯人が被害者宅から逃走したのは31日午前10時すぎ(パソコンの通信記録による)から、事件が発覚し警察にがあった午前10時56分ごろの間とみられていた。 しかしその後の再検証の結果、犯人が確実にパソコンを操作したとみられる午前1時18分ごろより後の夜間に逃走した疑いもあるとして捜査が行われている。 また、31日未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ている。 逃走後の移動手段、経路については現在のところ不明である。 近辺の交通状況 被害者宅から比較的近い鉄道のとして、、、、がある。 最寄のは「グランド前」()。 行き先は「成城学園前駅西口」「千歳烏山駅南口」「」「一丁目」などがある。 被害者宅の脇にはが流れており、川に沿って側道も続いている。 側道を北上するとすぐににぶつかるが、道路を渡ってさらに側道を進んでいくと仙川駅付近に到達する。 また、側道を南下するとにぶつかるが、公園内を通ってさらに側道を進んでいくとの学校関連施設などの横を通って成城学園前駅付近に到達する。 東武日光駅の目撃情報 事件発覚から6時間以上経過して、(発)17時26分着のに乗っていた右手に骨が見えるほどの深い怪我を負った30歳ぐらいの男が、駅の事務室で治療を受けている。 身長は約175センチ、黒いダウンジャケットを着ていて下はジーンズだった。 また、怪我の原因、男の氏名などは不明である。 当初は犯人が夜のうちに逃走したと思われていたことから、に捜査員を派遣したのが2001年10月とだいぶ出遅れてしまうこととなった( 産経新聞 2002年12月18日付・同月27日付)。 の記事( )によると、この男の行方や正体は現在も分からないままである。 上記の被害者宅近辺の駅から東武日光駅へは、やを経由してからの快速電車に乗車する、あるいは新宿駅を経由してからに乗りやなどで快速電車に乗り換えて向かうことが可能(2000年当時)である。 その他 犯人の私物と思われる現場の遺留品が購入できた場所として、京王線沿線や周辺、小田急線周辺などが挙げられており、これらの地域が事件当時の犯人のだった可能性がある。 現場の遺留品・犯人の所有物 [ ] 現場には犯人のものと思われる遺留品が多数残されていた。 以下に現在判明している遺留品の情報を記す。 なお、犯人の服装や遺留品についての詳細は「」および「 」も参照のこと。 概要 これらの遺留品が置かれていたのは被害者宅の2階部分である。 現場に残されていた衣類は綺麗に畳まれていた。 被害者宅の最寄り駅も通っている京王線沿線やのJR荻窪駅前など現場周辺でもトレーナーや柳刃包丁、ヒップバッグ、に付着していたが購入できた( 読売新聞 2001年2月9日付)。 柳刃包丁やヒップバッグ、、ハンカチ、手袋など以外の物が小田急線本厚木駅付近の店や金物店でも扱われていたことが分かり、トレーナーも内の店舗で3着が販売されていたことが判明した。 また、同線の周辺ではトレーナーとマフラー以外の物が購入可能であったことが確認された。 被害者宅から約1. 8キロである小田急線成城学園前駅から本厚木駅までは直通電車で約35分ほどである( )。 スーパーマーケットなどで購入できる品が多く、このことも捜査が難航する要因のひとつとなっている。 トレーナー(ラグランシャツ) [ ] 返り血が大量に付着していたが、2階の居間から綺麗に畳まれている状態で発見された。 一方で、初期には「裏返しに丸められて放置されていた」という報道( 産経新聞 2001年1月5日付)もある。 綿製で、サイズはL(身長175センチから185センチ用)。 2000年8月製造、9月から11月まで販売(販売状況については後述)。 は、胴の部分がグレーで両腕および丸首の部分が紫色。 同年で放送されたドラマ『』で主演のが着ていたタイプとされ、当時、若者の間で流行していたと呼ばれるものである。 何度も洗濯した形跡があり、色あせてクリーム色になっていた。 蛍光剤などの付着 赤色系の(粉末蛍光染料、詳細は)が胸付近に微量付着していた。 ただし、ヒップバッグや被害者宅の車庫からは3種類の染料が検出されたが、トレーナーは2種類のみである。 またトレーナーの染料には溶けた形跡がなく、付着してからは洗濯が行われていないものとみられることから、染料は事件直前に付着した可能性がある。 蛍光剤のほか、染料の色むらをなくしたり、演劇の舞台装置作りなどの用途でを加工したりする際に使われるオイルという化合物の成分が検出された( )。 ヒップバッグの染料については2018年5月に新たな見解が示されている(詳細は後述の「」を参照)。 現場近郊における販売状況と情報提供の呼びかけ このトレーナーと同タイプで同サイズのものは全国で130着、都内では4店舗で計10着しか売られていなかったことも判明した。 都内の10着のうち1着の所在が判明したが、特別捜査本部は購入者が判明していない残り9着のトレーナーの行方について情報提供を呼びかけている。 都内で売っていた4店舗があるのは、京王線、、JR荻窪駅、である。 また、同タイプのトレーナーは都内近県では神奈川県のほかに、、、などでも販売されていた。 神奈川県厚木市内の店舗では3着が販売されていた。 同タイプのトレーナー(LサイズおよびMサイズ含む)が販売されていたのは14で41店舗となっており、全130着の販売店舗が2011年12月までに判明している。 このうち52着が、22着がでの販売となっている。 また、130着のうち同時期までに購入者が判明しているのは12着に留まる(詳細は後述の「」を参照)。 ジャンパー(ダウンジャケット) [ ] 製「エアテックジャンパー」で、黒色、Lサイズのもの。 事件直前の2000年10月販売後、すぐに完売した。 販売数は8万2,000着(都内1万194着)。 通販、ネット販売もあり。 袖口からは犯人の血液型と同じA型のが検出された( 産経新聞 2001年4月2日付)。 ポケットの中の砂・遺留物 [ ] ポケットからは()の海岸の砂のほか、ヒメ()またはの、ケヤキと(以外)の枯葉、飼育用のを食べていたとみられるより小さいのも検出された( )。 砂は、海岸、のいずれかのものと推定される。 葉片は当初ヒメザクロと思われていたが、の結果、現在はケヤキとヤナギ(シダレヤナギ以外)となっている。 「バッコヤナギ」など数種類にまで限定して絞られたヤナギは、に多い「シダレヤナギ」とは違いおもに水辺に生息している特徴がある。 なお、被害者一家が事件の2年前に三浦半島の海岸のホテルで宿泊していたという情報もある。 スニーカー(テニスシューズ) [ ] 遺留品ではないが、現場に残されていた足跡から判明。 ブランド「Slazenger」()で、のが1998年10月から2000年11月にかけて4,530足していた。 白地に灰色のラインのものと紺色のラインのものがあり、ローカット、ハイカットなども含めると全部で5タイプある。 ( 2007年1月17日付)によると、靴の出所はである可能性があるという。 捜査本部は2018年8月、このスニーカーの3D画像を捜査本部のサイトで公開している(同サイト内の「」を参照)。 犯人の靴のサイズと日本国内での流通 犯人が履いていた靴のサイズは、現場に残されていた足跡から「28センチ(280)」(韓国サイズ)、あるいは靴枠が共通の「27. 5センチ」(日本サイズ)である。 また、靴の外枠が韓国サイズの「28センチ」と同じである「27. 5センチ」のものは国内での販売も確認されたという一部報道もあったが、捜査本部が2018年8月に公開した情報によると、韓国で「KOR280」と表記されている 日本サイズ27. 5センチについても日本国内の正規ルートでの販売は確認されていないという。 捜査本部では犯人が韓国で購入したか並行や個人輸入などで入手した可能性にまで視野を広げ、情報提供を呼びかけている。 詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと。 帽子 [ ] 「」と呼ばれるもので、帽子本体が濡れても頭が濡れないため、雨具としても使われることがある。 また、「」とも呼ばれる。 全国のジーンズショップで販売され、1998年7月から2000年11月までの間で3,465個販売。 シールのタグから1999年9月以降に販売されたもの。 都内で遺留品のトレーナーが販売されていた4店舗でも販売。 マフラー [ ] 緑色地で、赤と橙色、濃い緑の格子模様が入っている。 アクリル製。 小さいタイプのマフラーで、長さ約130センチ(縦30センチ)。 製造元や販売時期・エリアなどは不明(の景品やでも売られていた可能性のあるもの)。 や繊維のほつれ具合などから、犯人が長期間使用していた可能性がある。 マフラーのサイズと犯人像(2018年5月情報公開) 長さ約130センチのマフラーは身長が同程度の子どもがよく使用し10代半ばの平均的な首回りにもフィットする(成人した大人が使用する場合には小さい)ことから、犯人が少年期から青年期にかけて使用していた可能性も考えられ、後述のと合わせて学生が使用していた可能性を示唆するものとなっている。 黒い防寒手袋 [ ] 「ボアつきグローブ」として販売。 黒革で26センチ、中はボアつきで外側は豚革を使用。 製造数は1998年から2000年にかけて計1万755組。 犯行時に使用された形跡がなかった。 柳刃包丁 [ ] 刃渡り21センチ、全長約34センチ。 一般的に刺身包丁に使われる。 犯人が残していった柳刃包丁「関孫六 銀寿」は、 のメーカーが2000年6月に1,500本製造していたものだった。 型から作られた大量生産品で、全国のやなどで販売されていた。 現場付近では、世田谷区・杉並区内で事件前月の11月中に13本販売、被害者宅から数キロ圏内にある近くのスーパーで事件前日の29日に2本販売、近くのスーパーでも事件前日と当日の30日に1本ずつ販売されていた。 また、事件前日にのスーパーでも販売されており、このとき購入した「身長170センチ前後、年齢30代、黒っぽいジャンパーの男」の似顔絵イラストが2004年に警視庁より公開されている(詳細は後述の「」を参照)。 なお、柳刃包丁は最初の凶器として使用されたが犯行時に刃が欠けたため、被害者宅にあった文化包丁も2つ目の凶器として使用されている(「」も参照)。 黒いハンカチ [ ] 2階の踊り場付近と台所で発見された。 黒で無地のハンカチ2枚は45センチ四方でで販売されていたもの。 製造数は1995年からの約6年間で計6万6,500枚(1998年以降は5万9,000枚)。 ハンカチにはアイロンや洗濯の形跡も残されていた。 ハンカチの特殊な用途 うち1枚については中心部に約3センチの切れ目を開け、ハンカチの一部を押し込んで袋状にするという特殊な方法で包丁の柄を包んでいた形跡(詳細は「」を参照)があり、犯行時に包丁を固定する際の滑り止めや返り血を避ける目的で使用したとみられている。 もう1枚は三角形に折られ両端に絞り込みがあったことなどからマスクやバンダナとして使用したとみられる( )。 なお、バンダナは長さ63センチで顔に巻いており、比較的顔が小さい人物とされる。 そのほか、2枚のハンカチには二十数箇所に穴が開いていたことから、柳刃包丁を包んでいたことなども考えられていた。 結び目と犯人の血液が付着していたことなどから、止血に使用した可能性も指摘されていた。 また、「黒いハンカチ」が残されていたことについては、犯人にとって的・的な意味合いがあるものではという見方もあった。 包丁の柄を包んでいたとみられるハンカチについて、2018年にはの水産加工場で魚をさばく際に、包丁の滑り止めとして似た方法でハンカチを巻いていたとの情報提供があったことが警視庁特捜本部のサイトで公開されているほか、2019年には北部の一部地域における儀式・狩りの際や軍人、などが刃物を包む方法に似ていることが警視庁の情報公開により明らかとなった(詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 香水 [ ] 全国の量販店などで販売。 1982年ごろから日本国内でも販売。 事件当時、JR荻窪駅の雑貨店でも購入することができた。 ハンカチやヒップバッグに付着していた香水はGuy Laroche()の「DRAKKAR NOIR」()とみられている( 読売新聞 2003年12月23日付)。 これはスケートボーダー(をする人)の間ではも多い、1980年代に活躍したアメリカのプロスケートボーダーが愛用していたものだった( )。 また、香水の種類については「DRAKKAR NOIR」ではなく、20年から30年ほど前に流通していた「DRAKKAR」の可能性もある。 ヒップバッグ [ ] 深緑色でふたがついており、ベルトの長さは83センチに調節(胴回りは70〜75センチのやせ型と推定)。 大阪の業者が2,850個製造し、1995年9月から1999年1月にかけて35都道府県で販売された(関東地区のディスカウントストアなどでも販売)。 使い古されており、犯人が長期間使用していた可能性がある。 バッグの外側と内側には2枚のハンカチと同じく、刃物による二十数か所の傷があった。 また、バッグの表面からは日本ではほとんど流通していない、によく溶ける特種なとみられる成分も検出された。 このことから、犯人または周囲に「日本国外の渡航歴がある人物」の存在が論じられている( )。 さらに、洗剤が検出された部分と同じ場所やバッグの内側から物質(染料)も検出されている(詳細は後述の「」を参照)。 しかし、検出された物質についてはその後の検証の結果、捜査本部では「などを入れていた跡」という見解に至っており、学生時代によく使用されるでもあることから、前述の販売時期(1995年〜1999年ごろ)に犯人が学生であった可能性も視野に入れて捜査している (2018年5月情報公開、詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 バッグの中の砂 [ ] バッグの中から検出された砂は石英などを含んでおり、「西部の付近にあるの」と思われていたが、の砂の可能性が高いことが分かった( )。 このカリフォルニア州のものと思われる砂は、約3万5,000に及ぶ南西部にある付近のものであることも判明した。 同基地東部の砂は特徴的なものであり、バッグ内の砂と酷似しているという( )。 また、ジャンパーのポケットから検出された三浦半島の砂は、バッグの中からも検出されている。 カリフォルニアはスケートボード発祥の地で、三浦半島の「うみかぜ公園」にはスケートボーダーが集まる場所があり、大会も頻繁に行われている。 このことから、いずれもスケートボードと縁の深い場所の砂であることが明らかになった( )。 多量の遺留物 [ ] バッグの中にはそのほかにも、機のロールに装着するインク汚れ防止用フィルムやの材などに使われる微小なガラス球(ビーズ)、金属、、、約1億4000万年前のものと思われる(に含まれる)などの細かい粒が大量に見つかっており、その中には日本に流通していない成分や一般の人には入手しにくいものまで含まれていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 遺留物の詳細とスケートボーダーへの結びつき ガラス球は、、などで形成され、白い状、直径約50のものが5、6粒入っていた。 このガラス球はアメリカののガラス加工メーカーが製造し、国内ではのメーカーが製造する印刷機の特殊フィルムに使用されていた( 産経新聞 2001年12月27日付・朝日新聞 同月28日付)。 なお、これらは成分分析により明らかになったもので、「発見当初は原料のと思われていた」と解説している報道( 朝日新聞 同記事)もある。 その一方で、後年でも「チタン酸バリウム(の粉)が含まれていた」という報道( )が存在する。 捜査の結果、これらの数種類の物質はスケートボードの滑り止めに使われるグリップテープを削ったものである可能性があることが分かった。 この作業は通常はスケートボード購入時に店員が行うが、慣れているベテランだと自分でグリップテープをボードの形にカットし、ドライバーなどで削るようである。 モナザイトについても、の花崗岩にも含まれていることが分かり、砂と同様にカリフォルニア州に由来する可能性があるという。 これらのことからスケートボーダーが何らかの形で事件に関わっている可能性も浮かぶ。 捜査本部では、スケートボードを扱う業者やバッグがスケートボーダーから別の人物に渡った可能性にまで視野を広げ、現在捜査している。 カリフォルニア州への渡航歴についても重点的に捜査している( )。 赤色系の蛍光剤 [ ] トレーナーやヒップバッグの内側に赤色系の蛍光剤(染料)が付着していた。 この染料は発見時にシャッターが閉まっており、事件現場に残された犯人の足跡などの形跡が発見されていない被害者宅1階車庫付近からも検出されている(注:犯人が触れた形跡のない被害者宅の棚の中から染料が検出されているという一部報道もあるが、車庫内の棚と別物かは不明)。 車庫の染料は暗闇の中でを当てることによって光り、発見された。 事件前に犯人や犯人と関係ある人物が現場を訪れた可能性、被害者と犯人に交流があった可能性も視野に入れて捜査している。 被害者(父親)は、大学時代には劇団サークルに参加しており、事件当時は関係の会社に勤務していた。 大道具や先の企業へのなどで蛍光剤を使用していた可能性があるとみられていたが、のちの捜査で被害者自身は仕事などで使用した形跡がないことも判明した。 蛍光剤の詳細(2009年12月情報公開) 蛍光剤の原料は粉末で日本では製造されておらず、国内では化学薬品会社2社が中国やから輸入後、複数のメーカーが印刷用や道路標識用、看板の蛍光塗料などに加工して使用されている。 蛍光剤は3種類の粉末蛍光染料で、「」「バソニール」という商品名で流通、粉末状では赤茶色(緑色という報道もあり)で水に溶かすと赤やピンク系になり、で蛍光発色する。 おもに紙や布、木綿などの繊維の染色のほかに、プラスチック製品、漫画本、包装、広告、顔料やインクの製造、蛍光ペン、油絵の具材、レーザーの研究、工事現場などでも使用される。 3種類共に使用するのは一般的でないため、染料・塗料を扱う専門業者や工場、製紙メーカー、研究施設、舞台関連の制作業者、デザイナーなどの可能性が高い。 なお、染料は犯人の遺留品であるトレーナーから2種類、同じく遺留品であるヒップバッグの内側や犯人が犯行時に侵入した形跡のない車庫の奥の横倒しになった棚の引き出し(物置スペースと思われる、引き出しは縦の状態)の底から3種類発見されている。 また、車庫の引き出しの染料は底に付着している程度で、事件以前に被害者と犯人が車庫の暗闇の中で蛍光染料を確認しあった際の痕跡の可能性がある。 詳細については後述の「」も参照のこと。 その後の鑑定結果(2018年5月情報公開) ヒップバッグに付着していた塗料について、捜査本部では「蛍光ペンなどを入れていた跡であった」と2018年5月までに断定。 前述の通り、蛍光ペンは学生時代によく使用される文房具でもあることから、ヒップバッグの販売時期(1995年〜1999年ごろ)に犯人が学生であった可能性も視野に入れて捜査している。 詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと。 毛髪 [ ] バッグの中から、現場に残された犯人のもの(血痕)とDNA型も一致している長さ数センチの黒色のが発見された( )。 また、毛髪は長さ約2. 5センチとなどで刈られた長さ約1. 5ミリの2本である (2018年8月情報公開、詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 現場からの消失物 [ ] 犯人が持ち去ったものとみられていた2000年正月の年賀状は、捜査員によって聞き込み捜査のため持ち出されていたことが判明している( )。 デサント製のトレーナー [ ] 被害者宅にあった父親のトレーナーがなくなっており、犯人によって持ち出された可能性がある。 魚柄で前面に「DIVE」という文字が入っており、背面にはAからZの26文字がプリントされている。 1991年から1996年ごろまで販売されていた。 現金約20万円 [ ] 被害者が経営していた学習塾()の授業料である現金約20万円(約15万円という報道もあり)がなくなっており、現金が抜き取られたとみられるもあったが( )、銀行の預金通帳やキャッシュカード、類などは持ち出されていなかった。 ただし、上記の通りカード類や書類などを仕分けし物色した形跡は残されていた。 このほか、1階書斎の本棚に置かれていた現金約6万円が入ったには手がつけられていなかった( )。 その後、京王線千歳烏山駅付近に寄り帰宅したとみられている。 なお、車庫の前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、事件発生直後のなどから一家所有の車は車庫の中ではなく、このスペース部分に置かれていた可能性がある。 ただし、日常的に車を車庫に入れていなかったかは不明である。 同19時ごろ、母親が隣に住む実母と被害者宅の電話で会話している。 また、長女が母親の実母の家を訪れている。 同21時38分ごろ、長女のパソコンでを視聴した形跡が残っている。 事件発生前にあったインターフォンの音と怒鳴り声 [ ] 隣家の住人が事件当日の20時30分ごろ、被害者宅のの音が鳴るのを聞いている。 ただし、者の同居家族が音について否定しているうえ、この件に関する捜査は進んでおらず名乗り出た人物もいない。 また事件当日の30日深夜、通行人が被害者宅で男女が口論する声を聞いていたという報道( 2002年7月2日付)もある。 犯行時刻前後の「ドスン」という大きな物音 [ ] 隣家の親類は事件発生時刻前後の23時30分ごろに被害者宅から「ドスン」という大きな物音がするのを聞いていた。 また「ドスン(ドスン)」という大きな物音は週刊朝日( )によると、犯人が2階踊り場にあった屋根裏部屋へのハシゴを上げた音とされている。 これは実際に実験を行うなど検証によるものである。 「ドスン」という大きな音については犯人と対峙した被害者が階段から落ちた音であるとして、これを犯行時刻とする見解もあった。 被害者宅の隣に住んでいた母親の実姉(ペンネーム)は、家族が聞いたこの「ドスン」という音を「カタン(カタン)」であったと記している( 2002年10号)。 また、この音を「をひっくり返すような音」とも形容している。 実姉は翌午前1時すぎに就寝したが、その他には特に変わった物音は聞こえなかったとも記している。 事件発覚時の状況 [ ] 父親は1階の階段下で外出着姿(片足が裸足)、母親や長女は2階階段踊り場付近、長男は2階の子ども部屋でそれぞれなどの寝巻姿で発見されたとされる。 事件の第一発見者である母親の実母は発見時に母親や長女らの遺体に触れていたため、警察の現場検証ではなく実母の証言によるものとなるが、父親の遺体の上には引き出しが乗せられていたといい、さらに母親の遺体は全体が黒っぽい山のように見えたとも証言していることから顔を含む全体に洋服が被せられていた可能性があるという。 ただし、前述のように警察が到着した時点では一部動かされてしまっていたため、遺体の顔まで引き出しや洋服により覆われていたというのは確実な情報ではない。 このほか、長男は頭の方から布団が被せられており、長女は顔が下向きになっていた。 被害者の顔を隠すのは、犯人が顔見知りの場合に多いとされる( )。 このほか、現場は「血の海」でなかったと前述の母親の実姉が記している( 法学セミナー 2002年10号)。 さらに事件発覚時、1階の電気はついていたと一部で報じられている。 週刊文春( 2001年1月25日号)によると、新聞配達員が31日早朝に新聞の朝刊を配達したときには被害者宅の玄関の電気は消えていたが、殺害された母親の実母が現場を訪れたときには電気がついていたという。 なお読売新聞( )によると、未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ており、犯人がこの時間帯には現場から逃走していた可能性の一部として報道されている。 事件後に置かれた地蔵 [ ] 事件からちょうど100日目の、産出の花崗岩で作られたが被害者宅から仙川を隔てた遊歩道脇に置かれていた。 地蔵の底と台座上部に「六」の文字のようなものが彫られていた。 指紋は採取されなかった。 特別捜査本部ではこの地蔵の製造・輸入・販売などに関する情報提供を呼びかけている。 被害者宅周辺の当時の状況とトラブル・防犯対策 [ ] の北側入口 被害者宅周辺は祖師谷公園(都立公園)の拡張工事でほとんどの家が転居しており(被害者宅も2001年3月転居予定だった)、事件当時は被害者宅・隣家1軒(被害者の親族宅)・向かい2軒の計4軒の家が残されているのみだった。 そのため、夜の人通りは少なく事件の目撃証言も少なかった。 一家がこの場所に引っ越してきた6月には、住宅が30軒ほどあった。 被害者宅近くにはスケートボードができる広場があり、夜に滑るなどルールを守らないスケートボーダーと被害者宅との間ではでになっていた。 事件数日前にも、スケートボーダーと被害者が揉めていたという目撃証言もある。 そのほか、公園に出入りしていると被害者宅がトラブルになっていたという話もある。 現場周辺では2000年夏以降、を切り取られたりを剥ぎ取られたりするなどの事件が数件起きていた。 事件直前の12月中旬にも1件あった( 毎日新聞 2001年1月18日付)。 被害者宅のポストにはセンサーがあり、人が通ると防犯用ライトが点灯する。 また、玄関の扉の鍵はMIWA製の特殊なもので、鍵穴がドア上部とノブに2つあり、1つの鍵で両方とも開けられる仕組みとなっている。 ドアチェーンもある( 週刊文春2001年1月25日号、3月8日号)。 被害者夫婦に関する情報 [ ] 父親は大学卒業後、の制作に携わりを設立している。 また、の制作にも出題などで関わっていた。 事件当時は英国系の会社(デザイン会社とされる場合もある)で、企業のイメージカラーなどを考案するの仕事に同部門のリーダーとして携わっていた。 父親は事件前日までその日の行動や出費など事細かに日記を書いていたが、トラブルなどに関する記述は見あたらなかった。 母親は1990年12月より方式の塾を隣の姉夫婦の家(当初は自宅)で開設していた。 なお、被害者宅1階にあった塾の書類は上述の通り物色されており、引きちぎられるなどして2階の浴槽に放り込まれていた。 「被害者宅の1階を塾の教室にしていた」という報道もあるが、に隣家の姉夫婦一家が海外に引っ越してからは「隣家(姉夫婦の家)」で教えていたようである(その間、隣家には母親の実母が一人で住んでいた)。 2000年に姉夫婦一家は帰国しており、事件発生時には家族全員が隣家にいた。 なお、母親は姉とともに(当時、2000年8月より)前でもより学習塾を開設していた。 1992年に隣家へ移したのはこの塾という情報もある。 犯人の目撃情報・不審者の情報 [ ] 以下に犯人の目撃情報および不審者の情報を列記する。 事件の犠牲者である母親が「家の前の道路に最近、ずっと車が止まっている」と事件数日前の25日に話していたことを義父が明らかにしている( 朝日新聞 2004年12月26日付)。 事件3日前の27日午前、被害者宅の様子をうかがっている40代半ばの不審な男が目撃されている( 読売新聞 2001年1月3日付)。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ、現場に残されていたトレーナーやヒップバッグ、スニーカーとよく似た服装の若い男が目撃されている( )。 目撃者の主婦によると「この男が12月の末にしては薄着だった」ため、よく覚えていたという。 また、週刊朝日( )によると、この男は事件直前の30日21時ごろにも被害者宅付近で目撃されているという。 事件当日の30日昼すぎに、見慣れない男が被害者と言い争っている姿が目撃されている( 読売新聞 2001年1月1日付)。 事件当日の30日19時と22時ごろ、被害者宅の近くを流れる川沿いの歩道(側道)を歩く、犯人が現場に残していった帽子とよく似た帽子をかぶる35歳から40歳前後の男が目撃されている。 19時の男は被害者宅脇、22時の男は被害者宅と反対側の歩道を歩いていたが、2人の男が同一人物かは不明だという( 産経新聞 2002年12月18日付)。 事件当日の30日22時ごろに被害者宅から公園内を南に約250メートル地点で、白っぽいジャージを着た金髪の不審な若者(17歳〜19歳くらい)が目撃されている。 若者は目撃者の愛犬を睨みつけて通りすぎたという。 事件当日の30日23時35分から40分ごろに被害者宅に通じる路地から飛び出してきて、走り去った25歳から35歳の男が目撃されている。 この男については似顔絵イラストが2004年12月に警視庁より公開されている(詳細は後述の「」を参照)。 2014年12月になって犯人が被害者宅から夜中のうちに逃走した可能性が取り沙汰されているが、31日未明の時間帯ではこれまでに事件現場近くの公園にいた自転車に乗った若い男や止めたバイクのそばに立っている人物などが目撃されており、警視庁はこの時間帯の目撃情報について改めて捜査している( 2014年12月12日報道 、詳細は後述の「」を参照)。 事件当時、現場近くで左手(袖口から甲)に血が付着した男の目撃情報があった。 目撃者の女性は車を運転しているときに、道路へ飛び出してきたその男と軽く接触したという。 しかし、女性が名前などを名乗らなかったためその後の連絡が取れず、目撃した時間帯などについても不明なままである( 2015年3月23日報道 、詳細は後述の「」を参照)。 事件発覚当日の31日に東武日光駅17時26分着の快速電車に乗っていた、右手にが見えるほどの深いを負った30歳ぐらいの男が目撃されており、駅の事務室で治療を受けている( 産経新聞 2002年12月18日付)。 なお、この男については「身長が175センチぐらい、服装は黒いおよび」とされる(「」も参照)。 犯人像・事件の分析など [ ] ()は、本事件の犯人像について、「日本の古典的な一家殺人事件と異なり、被害者と犯人との間で、濃密な人間関係があったとは思えない。 異常な殺しぶりや、現場の乱雑さを見ると、犯人は何らかの恐怖で、に陥った末に、場あたり的に『近くでやれそうな人間をやってしまおう』という程度の計画性・覚悟しかなく、凶行に及んだという線が強い」として、本事件と近い犯罪者心理が読み取れる事件として、犯人がに脅され、心理的に追い詰められた末に犯行に及んだ、(1992年発生)を挙げている。 警視庁の情報公開・捜査状況・関連事実 [ ] 警視庁がマスコミ等を通じて行った当該事件の情報公開、新たに分かった捜査状況、関連事実を記す。 警視庁の情報公開 [ ] 詳細は「」も参照のこと。 2004年 [ ]• - 事件からちょうど100日目の2001年4月9日に被害者宅から仙川を隔てた遊歩道脇に置かれていた、東南アジア産出の花崗岩で作られた地蔵の写真が初めて公開された。 地蔵の底と台座上部に「六」の文字のようなものが彫られており、指紋は採取されなかった( より)。 - 捜査本部は事件に関与している可能性がある不審者のイラストを初めて公開した。 公開されたイラストは、事件発生時刻前後(12月30日23時30分すぎ)に被害者宅近くで目撃された「身長175〜180センチ位、25〜35歳位、やせ型、は少し長め、っぽいジャンパー、黒っぽいの男」と、事件前日の29日に犯行で使用された柳刃包丁と同じタイプの包丁を武蔵野市吉祥寺ので購入していた「身長170センチ前後、年齢30代、黒っぽいジャンパーの男」の2つ( より)。 2005年 [ ]• - 読売新聞によると、特別捜査本部が犯人像を「事件当時、京王線沿線に住んでいた若者(当時15歳以上)」に絞り込んだことを明らかにした。 また、の捜査協力の結果、最近になって「犯人が韓国で育った人間でない」ことを確認し断定。 「犯人が現場に残していったものと同タイプで同サイズ(L)のトレーナーが都内では、4店舗(京王線沿線は2店舗)のみで10着しか売られていなかった」ことも判明し、このトレーナーの購入者のうち現在所有していない人間の中に犯人がいるものとみて、購入者が判明していない残り9着のトレーナーの行方について情報提供を呼びかけている。 呼びかけに応じた人はトレーナーの提出を求められるが、新品で同様のトレーナーを贈呈されることになっている。 なお、トレーナーの販売ルートはさまざまな報道を見ると当初からほぼ特定できていたとみられるが、犯人像とともに今回改めてメディアで公開し情報提供を呼びかけたものと思われる。 - 時事通信によると、怨恨ではなく金銭目的の犯行という見方を強め、犯人像を「当時一人暮らしで、金に困っていた18歳から35歳の男」と絞り込んだことを明らかにした(ただし、普段から外泊に無関心な家庭で生活していた可能性もある)。 当初はトレーナーが何度も洗濯されていたことなどから「家族と一緒に暮らす生活色の強い男」という見方がされており、犯人像がこの5年間で大きく変化している。 - 読売新聞によると、犯人が現場に残したヒップバッグの表面から日本国外のによく溶ける洗剤とみられる成分が検出されたことを明らかにした。 犯人または周囲に「日本国外の渡航歴がある人物」がいる可能性が高いとみられている。 また、警視庁は同日、事件の概要や犯人像の特徴をまとめたカードを全4万人に配布した。 - カードに記載された犯人像約30項目の内容が明らかになった。 新たに分かったのは「酒もたばこもやらない人物」「を読み分ける能力のある人物」など。 犯人は戸棚の引き出しを下から順番に開けて物色するという空き巣特有の開け方をしており、2階の居間のソファにカード類、その近辺には手帳や運転免許証など生年月日の分かる書類などが仕分けされていた。 これはキャッシュカードのを推測するために犯人が物色したものとみられている( 、読売新聞より)。 - 読売新聞によると、洗剤が検出されたヒップバッグ表面の同じ場所から蛍光物質も検出されていたことが分かった。 バッグに付着してしまい犯人が洗い落とそうとした可能性がある。 蛍光物質は製のなどに含まれているものとのことである。 12月30日 - によると、2階子ども部屋の二段ベッド付近や階段で犯人が横歩きをしたとみられる足跡が複数発見されていたことが分かった。 階段では、壁側から手すり側に向かって途中で足跡の向きが入れ替わっていた。 このような特殊な歩き方をしていたことから、犯人が「軍隊の経験者である可能性」もあると見てしている。 また、特別捜査本部はこれまで怨恨の線で捜査していたが、一家に関係するトラブルが見つかっていないことや2階浴室の窓から侵入するという手口、戸棚の引き出しの空け方、ソファに並べられたカード類、現金がなくなっていたことなどから、最近になって「金銭目的の犯行」の線で捜査していることも判明した。 しかし、犯人が長時間被害者宅に留まるなどの行動からや人格異常者の犯行の線も捨ててはいないという。 2006年 [ ]• - 産経新聞およびによると、特別捜査本部は「スケートボードをしている人物」に捜査の焦点を当てていることが明らかになった。 その理由について、以下の点を挙げている。 ヒップバッグから検出された数種類の物質が、スケートボードの滑り止めに使われるグリップテープを削った微粉末の可能性が高い。 ヒップバッグとジャンパーのポケットから検出された砂は、いずれもスケートボードと縁の深い場所(と)の砂である可能性が高い。 黒いハンカチから検出された香水は、1980年代に活躍したアメリカの人気プロスケートボーダーが愛用していた『DRAKKAR NOIR』だった。 被害者宅近くにはスケートボードができる広場があり、夜に滑るなどルールを守らないスケートボーダーには被害者が以前から注意しており、事件数日前にも揉めていたという目撃証言がある。 犯人の服装のうちラグランシャツとヒップバッグは、当時スケートボーダーの間で流行っていたストリートファッションのアイテムである。 - 産経新聞によると、特別捜査本部は犯人像を「系外国人の犯人」または「混血の日本人」と見て捜査を始めたことが明らかになった。 血液のから人間のルーツをたどる的解析によるもので、父系がアジア系民族、母系に系民族が含まれることが判明。 人種に関するプロファイリングが捜査に適用されるのには前例がなく、ずっとさかのぼった祖先が混血だった可能性も否定できないため、「犯人が純粋な日本人である可能性も否定せずに、幅広く捜査する」方針。 - 今年の春頃になってから警視庁に新たな目撃情報が寄せられていたことが判明した。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ、現場に残されていたトレーナーやヒップバッグ、スニーカーとよく似た服装の若い男を目撃したというもの。 最近の情報などから警視庁は「事件当時、現場付近に住んでいてその後に引っ越した若者や日本国外の人」に捜査の焦点を絞っている。 - 特別捜査本部は犯人が現場に残していった黒いハンカチ2枚について新たな情報を公開した。 うち1枚については中心部に約3センチの切れ目を開け、ハンカチの一部を押し込んで袋状にしており、犯行時に包丁の柄を差し込んで滑り止めや返り血を避ける目的で使用したものとみられている。 犯人が事前に細工などをしていることから計画的犯行の線も見て捜査、このような特殊な方法を使うがないか調べている。 ハンカチからは被害者の血液のほか犯人の血液も検出された。 もう1枚については、三角形に折って両端が絞り込まれていたため、バンダナやマスクとして使用したものとみられる( 朝日新聞、読売新聞、東京新聞より)。 また、犯人の血液を詳しく調べた結果、向精神薬や風邪薬などの薬物反応がまったくなくたばこも吸わないことが判明。 2枚のハンカチには洗濯をしをかけた形跡もあった。 これらのことから特別捜査本部は犯人像を「薬物中毒や投薬治療中でなく健康体」、「事件当時、現場付近の比較的裕福な家庭で、家族と一緒に暮していた15歳から35歳の男」と見ている( 朝日新聞より)。 12月30日 - 事件から6年、警視庁特別捜査本部の捜査会議の一部が公開された。 これまでに延べ14万人のが投入され現在も98人態勢で捜査、産経新聞によると、現在は犯人本人より犯人を知る人物や周辺者を中心に捜索しているという。 また、引き続き犯人が外国人やスケートボーダーである可能性、被害者宅が物色され現金がなくなっていたことから金銭目的の犯行、また怨恨による犯行の線なども視野に入れ、幅広く捜査している。 - 現場から長女の血が付着したティッシュペーパーが見つかっていたことが明らかになった。 母親と長女が犯人に襲われたとき1度目は致命傷にならなかったが、負傷しながらも長女の手当てをしていた母親に犯人が気づき、再度致命傷を与えた可能性があるという。 また、現場に残されていた犯人の血液からDNA型を解析した結果、日本人には少ない型とする専門家の意見があることも判明した。 「犯人が外国人や混血の日本人である可能性」も視野に入れて捜査している( 朝日新聞より )。 2008年 [ ]• - 毎日新聞によると、犯人の血痕のDNA鑑定により母方がやの民族の特徴を持つ点、さらに事件現場に残された遺留品などから犯人が外国と関係のある人物である可能性が高いことから、を通じ外国の捜査機関に捜査協力を求めていることが分かった。 これまで韓国や中国に指紋照合を依頼し、欧米の国々にも捜査協力を求めているが、要請に応じない国もあるという。 - 毎日新聞によると、今年3月中旬に犯人が侵入したと思われる被害者宅裏側の2階浴室窓下の公園フェンス付近に花束が置かれていたことが分かった。 家の表側は警察が24時間体制でしていたが、置かれた時点で気づかなかった。 警察は「心あたりのある人は名乗り出て欲しい」としている。 12月30日 - 毎日新聞によると、8月ごろに行った特別捜査本部の検証で犯人が現場に残したトレーナーやヒップバッグに付着していた赤色系の蛍光剤とほぼ同一成分の蛍光剤が、1階車庫周辺からも発見されていたことが判明した。 車庫は事件当時シャッターが閉まっており、現場に残された犯人の足跡などの形跡が発見されていないことから、「事件前に犯人や犯人と関係ある人物が現場を訪れた可能性、被害者と犯人に交流があった可能性」も視野に入れ、蛍光剤の流通経路や被害者の交友関係を調べている。 12月31日 - によると、犯人が被害者宅に残したヒップバッグから微量の砂(を含み、西部の砂漠地帯の砂と酷似している物)と1億4000万年以上前の放射性物質モナザイト(の花崗岩にも含まれているもの)が検出されたが、鑑定の結果それらの遺留物はカリフォルニア州に由来する可能性があることが分かり、特別捜査本部は70人態勢で被害者の勤務先や出身学校の関係者、事件当時、現場周辺に住んでいた人物らにをし、「カリフォルニア州への渡航歴がないか重点的に捜査」している。 2009年 [ ]• 警視庁は事件現場から発見された蛍光剤が3種類の粉末蛍光染料であることを公表した。 警視庁ではこの3種類の染料を同時に扱う場所の情報提供を呼びかけている。 以下に情報をまとめる( 、ニュース、毎日新聞、朝日新聞、、より)。 染料はおもに国内2社が商品化する「ローダミン」(ローダミンB、同6GCP、同6GCP-N)、あるいは「バソニール」(バソニールレッド540、同482、同485)で、粉末状では緑色(赤茶色という報道もあり)で水に溶かすと赤やピンク系になり、ブラックライトで蛍光発色する。 なお、染料のネームはそれぞれ「ベーシックバイオレッド10」「ベーシックレッド1」「ベーシックレッド1:1」である。 染料は上述のメーカーが顔料やインキなどに加工して販売するため、一般に出回っていない。 おもに紙や布、木綿などの繊維のほかに、プラスチック製品、漫画本、包装、広告、顔料やインクの製造、蛍光ペン、油絵の具材、レーザーの研究、工事現場(コンクリートの亀裂チェック)などでも使用される。 「3種類共に使用するのは一般的でないため、染料・塗料を扱う専門業者や工場、製紙メーカー、研究施設、舞台関連の制作業者、デザイナーなどの可能性が高い」と見ている。 被害者は大学時代には劇団サークルに参加しており、事件の直前にも企業のイメージカラー作成やイベントプロデュースなどの仕事に関わっていたが染料に関する専門知識がなく、「被害者自身が仕事などで使用していた形跡もない」という。 染料は犯人の遺留品であるトレーナーから2種類、ヒップバッグの内側や犯人が犯行時に侵入した形跡のない車庫内の木製の収納具から3種類発見されている(犯人が触れた形跡のない被害者宅の棚の中から染料が検出されているという報道もあり。 このことから、「事前に被害者宅を訪れたことがある人物か被害者と接点があった人物の可能性が高い」と見て捜査している。 犯人が事件前に被害者宅を訪れた理由について、「被害者と染料選定の打ち合わせをしていた可能性」などを視野に入れている( 東京新聞より)。 犯人の遺留品であるジャンパー(事件の1ヶ月前から販売されたもの)のポケットから発見された鳥の糞は以外の植物の種皮や、土砂などを含んでいないことから飼育されていたより小さい種類の鳥のもの、葉片は(当初)ヒメザクロと思われていたが、DNA鑑定の結果、ケヤキとヤナギ(シダレヤナギ以外)であることが明らかになった。 また、三浦半島の砂は馬堀、北下浦、三浦の3か所いずれかの海岸のものであることも明らかにした。 このため、「犯人や犯人の周辺人物が犯行直前に三浦半島を訪れたとみて、同半島周辺に捜査員を派遣」して聞き込みを行っている( 毎日新聞、朝日新聞、産経新聞より)。 遺留品のヒップバッグから発見された米国西部カリフォルニア州の砂は、約3万5,000km 2に及ぶモハーヴェ砂漠南西部にあるエドワーズ空軍基地付近のものであることも判明した。 同基地東部の砂は特徴的なものであり、バッグ内の砂と酷似しているという。 このことから、「犯人や犯人の周辺人物が同基地付近を訪れた可能性がある」と見て捜査している( 東京新聞より)。 - 被害者は大学時代には演劇、著名な人形作家の下で人形アニメ製作に参加、その後、知人と映画や漫画を製作する会社を立ち上げ、映画撮影の現場に出入りするなどしていた。 事件の直前にも旅客機の模型に塗装する仕事などをしており、塗料との関わりはいくつか浮上しているが、現場に残された染料と被害者、犯人の接点は浮かび上がっていない( 毎日新聞より)。 「O3eスター型」の割合は日本人の約13人に1人、中国人の約10人に1人、韓国人の約5人に1人にみられる。 南欧系の祖先は歴史的に見て遠くない祖先の可能性が高いが、DNA型から犯人との続柄は判別できないため、犯人の母親が南欧系の女性かは不明。 また、古い祖先が南欧系の可能性も否定できない( 、産経新聞 より)。 2010年 [ ]• - 現場に残されたトレーナーにシリコーンオイルという化合物の成分がついていたことが新たに分かった。 トレーナーからは粉末状の蛍光染料も検出されている。 シリコーンオイルは潤滑油や化粧品の原料などとして幅広く利用されているが、の色むらをなくしたり、演劇の舞台装置を作る際などの発泡スチロールの加工にも使われている。 被害者が事件当時、企業のシンボルカラーを決める仕事をしており、また学生時代には演劇活動をしていたことからその関連性や、シリコーンオイルや蛍光染料を仕事などで扱う人物が事件に関わっている疑いもあるとみて捜査をしている( NHKニュースより)。 - 手がかりとなる染料の捜査のため、の化学メーカーに捜査員を派遣していたことが分かった。 犯人の遺留品と被害者宅から見つかった3種類の赤色系蛍光染料のうち、2種類は同じ色の旧来品と後発品で、後発品の方が流通量が少ないため、その製造元からたどる捜査が開始され、協力は得られたが先が膨大で10年前の販売記録はほとんど残っていなかったため、国内の化学会社や染料の卸業者などでの取り扱いの動向を調べている。 被害者宅で染料が検出されたのは、車庫にある工具やカー用品などが入っていたとみられる木製棚の引き出しで、染料が付着していれば蛍光を示すライトで被害者宅や隣の親族宅が調べられたが、木製棚以外からは検出されていない( 時事通信より)。 - 2階の居間に残されていたヒップバッグの中から、長さ数センチで色は黒い毛髪が見つかっていたことが分かった。 毛髪のDNA型を鑑定したところ、現場に残された犯人のものと一致した。 また、現場からなくなっていたとされる2000年正月に届いた被害者一家宛ての年賀状は、捜査員が聞き込み捜査のために翌日までに返す約束で持ち出し、そのまま返却されていなかったことが判明した。 犯人が被害者一家との接点を隠すために処分したとみられていたが、初期段階での捜査の混乱が浮き彫りになった( 産経新聞より)。 2階の居間のソファにクッションが置かれるなど犯人が仮眠を取った形跡が残されていることが分かった。 被害者夫婦は几帳面な性格であり、そのまま放置したとは考えられにくいという。 また、パソコンが短時間だけ使用された午前10時には向かいの家に宅配のが来て被害者宅方へバックしていたといい、トラックの音で慌ててパソコンの電源を抜いた可能性も指摘されている。 道路に面する窓のには外を見ようとしてめくり上げたとみられる形跡も残されていた。 さらに、犯人は被害者宅でトイレを使用しており、残されていた大便からは野菜の胡麻和えが発見された。 被害者一家の胃の内容物や食事とは異なっている( 時事通信より )。 現場から見つかった遺留品が事件当時、神奈川県厚木市内の小田急線本厚木駅周辺などで購入可能だったことが判明した。 トレーナーは都内で販売が確認された店舗と同じ販売会社である厚木市内の店舗で3着が販売されていたことが判明(購入者は特定できていない)。 他、柳刃包丁やヒップバッグ、帽子、ハンカチ、手袋などマフラー以外の物も本厚木駅付近の衣料品店や金物店で扱われていたことが判明した。 また、同線の相模大野駅周辺ではトレーナーとマフラー以外の物が購入可能であった事も確認された。 被害者宅から約1. 8キロである同線の成城学園前駅から本厚木駅までは直通電車で約35分であるため、犯人の生活拠点が事件当時厚木市内であった可能性もあるとみて、本厚木(厚木市)、相模大野(相模原市南区)、登戸(川崎市多摩区)で20万枚のビラを配り情報提供を求めている( 時事通信、毎日新聞、産経新聞より)。 - 被害者4人の発見時、全員の顔に服や布団がかけられるなどして顔が隠れた状態であり、犯人が見えないように隠した疑いがある事が判明した。 顔を隠すのは犯人が顔見知りだった場合に多いことから、被害者の交友関係などを改めて捜査している。 母親(当時41・2階踊り場で発見)の顔にはたんすから物色されたとみられる洋服がかぶせられていた。 長女(当時8・2階踊り場で発見)は母親の脇でうずくまるように顔を下に向けていた。 長男(当時6・2階寝室で発見)はベッド上で頭から布団がかけられていた。 父親(当時44・1階の階段付近で発見)は机の引き出しが乗せられていた。 他、室内に色彩の専門書があったことも判明した( 時事通信より)。 2011年 [ ]• 12月19日 - 犯人が現場に残していったものと同タイプのトレーナー(LサイズおよびMサイズ含む)全130着の販売店舗(14都道府県41店舗)が警察の捜査により2011年12月までに判明、このうち52着が静岡県、22着が長野県での販売となっている。 また、130着のうち現在までに購入者が判明しているのは12着のみとなっている。 このため、犯人が静岡県内で購入した可能性も視野に入れて、都内でトレーナーや帽子などの遺留品が販売されていたJR荻窪駅のほかJRで初めてビラを配るなど情報提供を呼びかけている( 毎日新聞 、共同通信 より)。 汗などの付着物の鑑定により被害者宅のから犯人のDNA型が検出、現場に残されていた足跡からはスリッパの跡がないため、被害者と面識のある犯人が事件当日ではなく事前に被害者宅を訪れ、スリッパを使用した可能性があると見て捜査している。 一方で、犯人は一家殺害後に被害者宅の冷蔵庫の中にあるものを食しながら長時間現場に留まるなど、通常では考えられない異常な行動もみられることから慎重に捜査を進めている( 産経新聞 より)。 犯人の遺留品であるトレーナーの胸付近に付着していた微量の染料二種類について、捜査関係者の話により新たな事実が判明している。 染料は水に溶けるとピンク色に発色し繊維などの染色に使用されるもので、肉眼では付着は視認できず特殊なライトを当てることで確認できるものである。 トレーナーには何度も洗濯した形跡があるが一方でこの染料には溶けた形跡がないため、染料が付着した後には洗濯が行われていない可能性が高い。 このことから事件直前にトレーナーに染料が付着したものとみて、捜査本部では仕事や趣味などで染料を扱っていた人物に焦点を当てている( 時事通信 より)。 2012年 [ ]• 12月24日 - 犯人が被害者と顔見知りの可能性が指摘される最大の根拠として、犯人の遺留品(トレーナーやヒップバッグ)と犯人が事件当日に入った形跡のない被害者宅の車庫の双方に残されていた同一の蛍光染料が挙げられるが、車庫の染料については木製の収納具に収められていたわけではなく、車庫奥の(箱などが置かれた物置スペースで)横倒しになった棚の引き出しの底に「付着している程度」であったことが報道で明かされている。 捜査本部の見解として、事件以前に被害者と犯人が車庫の暗闇で蛍光染料を確認し合った際、地面を汚さないために下敷きとして置かれた引き出しに染料の一部が付着した可能性が指摘されている( NHK『』 より)。 2014年 [ ]• 12月12日 - 犯人がパソコンを操作したとされる時刻のうち、31日午前10時すぎのもの(2度目のネット接続)についてはパソコンの誤作動の可能性が高く、夜間のうち(1度目のネット接続があった午前1時18分ごろより後)に逃走した可能性があるとして、これまでの事件翌日の朝まで現場に留まっていたとする捜査方針を軌道修正している。 これは再現実験を行った結果、マウスが落下するなどの衝撃でパソコンが自動的に接続されることが判明したことによる。 また、31日未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ている。 さらに未明の目撃情報として、自転車に乗った若い男(現場近くの公園)や止めたバイクのそばに立っている人物などがこれまでの捜査で挙がっており、犯人が車などで逃走した可能性もあることから警視庁ではこの時間帯における目撃情報について改めて捜査している( NHKニュース 、読売新聞 より)。 - 遺留品や靴のサイズから推定し、犯人の身長を175センチ前後として情報提供を呼びかけていたが、ヒップバッグのベルトの全長から推測した結果、犯人の身長がより小柄な170センチ前後である可能性が出てきたとして、情報提供を求めるチラシの情報を修正している( 朝日新聞 より)。 2015年 [ ]• - 事件当時、現場近くで血が付着した男の目撃情報があったことが明らかとなった。 目撃情報は「左手の袖口から甲にかけて血のついた男が道路を飛び出してきて、自分の車に軽く接触した」という女性のもので、その女性が自分の名前などを名乗らなかったためその後の連絡は取れておらず、目撃した時間帯などについても現時点で分かっていないが、犯人の逃亡時間と推定される31日未明の目撃であった可能性もあることから、警視庁はこの情報を重要視して捜査を進めると共に改めて情報提供を求めている( NHKニュース 、日テレNEWS24 より)。 - 犯人の親指の指紋(渦状紋)には、その中心に2本の線が入った「豚の鼻」のような特徴があった( JNN系 TBS Newsi 、産経ニュース同月27日付 より)。 - 犯行時刻から数時間後と思われる31日未明の午前3時半ごろには、被害者宅の明かりが消えており人の気配も感じなかったと近所の人が証言していることが明らかとなった。 さらに、午前4時ごろには暗かったという別の証言も存在するという。 捜査本部では犯人が被害者宅を物色し、パソコンの操作などを行っていた午前1時すぎまでは明かりがついていたとみていることから、その後の午前3時半までの間に逃走した可能性も視野に入れて捜査している( 朝日新聞 より)。 - 首を絞められ殺害されていた長男の布団から、犯人の血痕が見つかっていたことが明らかとなった( 読売新聞 より)。 捜査本部のこれまでの見立てでは長男は一家の中で最初に殺害され、首を絞められたことに因る圧迫痕や鼻からの出血以外に外傷などはなかったとされている(「」も参照)。 2018年 [ ]• - 犯人の遺留品のうちに付着していた塗料について、捜査本部では「などを入れていた跡であった」と断定。 さらにヒップバッグの内容物(学生時代によく使用される前述の蛍光ペンなどの痕跡)に加え、販売時期(1995年9月〜1999年1月)やベルトの長さ(長さ83センチで胴回りは70〜75センチと推定)、のサイズ(長さ約130センチで10代半ばの平均的な首回りにフィット)などから、捜査本部が犯人像を「事件当時15歳から20代 の細身の男性」に絞ったことが明らかとなった( 読売新聞 、テレ朝news 、毎日新聞 、時事通信 より)。 捜査本部はに新たな犯人像などの情報をでも公開(同サイト内の「」を参照)し、情報提供を呼びかけている。 - ヒップバッグの内側からは犯人の血痕とDNA型も一致している黒っぽい毛髪が発見されているが、捜査本部はこの毛髪の長さについて約2. 5センチとなどで刈られた約1. 5ミリの2本であることを明らかにした。 また、犯人の足跡から判明した韓国製スニーカー「スラセンジャー」(27. 5センチ)の3D画像も捜査本部のサイトで公開。 同サイズのものは日本国内において正規ルートでの販売が確認されていないことも明らかにし、犯人が韓国で購入したか並行業者から購入した可能性などにも視野を広げ、情報提供を呼びかけている( 時事通信 ほか)。 捜査本部は同日、毛髪やスニーカーの情報をでも公開している(同サイト内の「」および「」を参照)。 2019年 [ ]• - 現場で発見された凶器の包丁の柄を包んでいたとみられるについて、北部の一部地域(と)における儀式・狩りの際や軍人、などが刃物を包む方法に似ていることが明らかとなった。 犯人が「フィリピン北部に住む人間」の可能性も考えられるため、ICPOを通じ情報収集を進めている他、現地に捜査員を派遣することも検討している( 朝日新聞 、産経ニュース 、まいどなニュース ほか)。 不鮮明な情報 [ ] 以下に記載するのは、過去にマスコミで取り上げられたものの、事件との関連性が不鮮明な情報である。 事件発生の前後、現場付近から京王線近くまで3人組の男がに乗車したが、降車後の座席シートにが残っていた( 毎日新聞 2001年1月2日付)。 ただし、後の報道で「現場で発見された犯人の血痕とタクシーのシートに付着していた血痕の照合を進める」( 毎日新聞 同月4日付)としており、照合した結果、犯人のものではなかった可能性も高い。 また特別捜査本部による鑑定の結果、タクシーの座席に付着していた大の血痕と思われたものはであったとする報道もある。 事件発覚当日の31日、浅草駅発・東武日光駅17時26分着の快速電車に乗っていた30歳ぐらいの男が右手に骨が見えるほどの深い怪我を負っており、駅の事務室で治療を受けていた( 産経新聞 2002年12月18日付)。 捜査員を栃木県日光市に派遣したのは事件からだいぶ経過した2001年10月に入ってからのことであり、有力な情報が得られず現在もその後の足取りがつかめていないことは、2006年末の週刊朝日の記事で触れられている(詳細は「」を参照)。 事件から数日経って右手に怪我を負った男が病院で治療を受けていた。 のちに「事件から3日後、右手の親指と人さし指の間を切って都内の総合病院に訪れた22歳の男は捜査の結果、事件とは無関係だった」( 産経新聞 2001年12月27日付)という報道もあり、これは上述の「怪我を負って病院で治療を受けた男」のことを指しているものと思われる。 さらに、22歳の男については「過去に被害者宅に出入りしたことがある」とも報道されている( 産経新聞 2001年1月10日付)。 ただし、「同日にも警察がを行い、犯人の血液型と照合する」とも同時に報じられており、事件と無関係なことが断定されたのはこの結果によるものと思われる。 その他の関連事実 [ ]• - 過去に成城署特別捜査本部で当事件の捜査活動をしていたが、捜査報告書に自分や妻の指紋を添付して実際には面識のない住民数十人から指紋を採取したように装うなど虚偽報告をしていたことが明らかになった( 時事通信 同日付)。 侵入から殺害方法、犯人が自ら行った治療行為、パソコン操作、逃走方法、被害者の行動、遺留品、指紋についての記述など10項目が「ことごとく事実と異なり、誤解を生じさせ今後の捜査にも悪影響を与える懸念がある」と異例のコメントを発表した。 この本の内容は多くのメディアからも厳しく批判された。 本文中に被害者の母親の言葉が出てくるが、母親は著者の取材に応じていない( 週刊朝日 2006年7月21日号)。 そもそもの出版企画は、元記者のがに持ち込んだもので、最初の原稿では「を使って玄関から侵入」と記述されており、基本的な事実関係すら間違っていた。 社長が「殺害方法にリアリティがない」と指摘すると、後になって詳細を書き加えてきたため、出版を見送った( 2006年7月20日号)。 - 当該事件やその他の未解決事件の現場にする張り紙や写真を貼りつけた男が違反(はり札の禁止)の容疑で警視庁にされていたことがわかった。 男は当該事件のほかにも「全国で15件ぐらいの事件現場に同様の行為をした」と供述している( 朝日新聞 同日付)。 9月 - 世帯主の父親が肺炎のため入院先の病院にて84歳で亡くなった。 8月 - これまで保存されてきた事件現場の建物は、老朽化のために取り壊される見通しであることが関係者への取材で判明した( TBS『』 2014年8月18日放送)。 過去には2012年ごろにも取り壊しの話が出たが、当時の警視庁・刑事部長が難色を示したことから免れた経緯がある。 なお、事件現場の建物については捜査活用目的で建物内部まで再現した3Dプリンターによる模型が製作されており、警視庁が2013年12月に公開している。 12月 - 前年(2014年)末に放送されたの番組に対し、の侵害などがあったとして遺族が(BPO)に申し立てを行った。 番組に出演した遺族が、犯人につながる具体的な発言をしたかのような過剰演出および恣意的な編集などがあったといい、過去に7回謝罪とを求めたが解決には至らなかったという。 これに対してBPOは、遺族の社会的評価がただちに低下するとは言えず「にはあたらない」としながらも、番組の内容については公正さと適切な配慮を著しく欠いており「放送上重大な問題があった」とする勧告を9月に出している。 11月 - 上記2014年8月の件に関連する話として、現場の建物を取り壊すか否かを警察が遺族側に打診し協議していることが明らかとなった。 1月 - さらに上記2019年11月の件に関連し、遺族の1人である入江杏は4人が一生懸命生きた現場の空気を感じて欲しいと、事件現場となった家屋の内部を一部のメディアに初めて公開した。 懸賞金 [ ] 警視庁は2007年12月14日より当該事件を(公的制度)の対象事件に指定した。 事件の解決、犯人の逮捕に結びつく有力情報の提供者に最大300万円の懸賞金が支払われる。 2010年12月16日以降は「事件の捜査に協力する会」により私的懸賞金最大700万円も用意され懸賞金は合計最大1000万円となったが、2014年12月にはさらに私的懸賞金が1000万円増額され、犯人逮捕につながる情報には 合計最大2000万円が支払われることとなっている。 なお、捜査特別報奨金制度の適用期限は1年単位での更新となっており、2008年12月までの期限以降、毎年延長されている。 詳細は「」を参照。 事件の影響 [ ] 設置された通報装置 この事件は在宅中の一家全員を殺害するという残虐な手口から世間の注目を集め、当事件の周辺地域に限らず各家庭の防犯意識を高めた。 また、この事件を機に世田谷区が街のや緊急時に警察へ通報できるスーパー(緊急通報装置)の設置を促進した。 特に防犯カメラは事件が減少するなどの効果が得られ、実際に事件の解決にも結びついている。 遺族会の結成と公訴時効廃止議論 [ ] 当事件の遺族は別の事件の遺族らと連携して殺人事件に関するの停止・廃止を目標に、、「、通称宙の会(そらのかい)」を結成した。 には、やなど法定上限がにあたる罪の公訴時効廃止などを盛り込んだ(およびの一部を改正する法律(平成22年法律第26号))が成立・施行し、同団体のおもな目的が達成された。 公訴時効の廃止は、当事件を含めて、改正の施行時に公訴時効が完成していなかった過去の事件にも適用されている。 改正法施行までの経緯 [ ] 宙の会のほかにも、11月、(あすの会)も殺人や強盗殺人など重大事件における時効廃止を求める決議を行うなど、事件の遺族による「時効停止・廃止」を訴える声、世論の関心も高まってきていた。 これに対しては、2009年5月にはが始まるのを受け、時効制度においても国民の視点で分かりやすく提示する必要があることも理由にして、殺人や強盗殺人など重大事件に限り、公訴時効の期間延長(数十年単位)や廃止、遺族の訴えで時効の進行を停止できる制度の設置なども視野に入れて、勉強会を開き検討していくと2009年1月に表明した。 2010年、殺人罪や強盗殺人罪など法定上限が死刑にあたる罪の公訴時効廃止などを盛り込んだ刑事訴訟法改正案がで。 4月27日には同改正案が可決成立し、即日施行された(施行までの経緯の詳細は「」も参照)。 宙の会がしていたその他の主張 [ ] 公訴時効の停止・廃止のほか、飛躍的に向上したDNA鑑定技術によりほぼ100%個人を特定できる(他人を犯人と誤る確率は非常に低い)ことから、犯人のDNAが特定されている事件の場合、DNAにを与え()できるようになどの制度改正も訴えていた。 これは、公訴時効が廃止された場合でも、法律改正以前の事件には適用されない可能性があったためである。 週刊誌などの情報 [ ] この事件は重大な未解決事件のひとつであるため、週刊誌などではさまざまな情報が錯綜している。 ここでは新聞などでは報じられていない週刊誌などの情報を記していく。 しかし、これらの情報の信憑性は定かではなく疑問点が多いものも少なくない。 新潮45 [ ] 侵入方法についてはシリンダーに細かな傷がついていたことから、特殊なナイフで解錠して玄関から被害者宅に侵入している。 また、犯人がゴムという軍隊などで使われる特殊な止血剤や、麻酔作用のあるを使用していた( 2002年1月号)。 警察の鑑識OBに依頼したところ、在住の男性の指紋と、現場に残されていた犯人の指紋が合致した。 韓国では全国民に指紋の登録が義務づけられている。 は韓国人の指紋と照合して誰とも一致しなかったとしているが、実際には日本からの捜査協力が韓国政府に拒否されている( 一橋文哉 2002年1月号)。 なお、この記事が掲載されて以後、警視庁の情報公開により犯人が「韓国で育った人間」ということは否定されている( より )。 ただし、そのことも最近になって判明した( 2005年時点の先の情報公開による)とのことで、これ以前における捜査協力拒否の真偽は定かになっていない。 週刊文春 [ ] 被害者宅のポストにセンサーがあり、人が通ると防犯用ライトがつく。 また、新聞配達員が31日早朝に新聞のを配達したときには玄関の電気は消えていた。 一方で、被害者母親の実母が現場を訪れたときには電気がついていた( 2001年1月25日号)。 玄関の扉の鍵はMIWA製の特殊なもので、鍵穴がドア上部とノブに2つあり、1つの鍵で両方とも開けられる仕組みとなっている。 ドアチェーンもある( 2001年3月8日号)。 事件発生数か月前の2000年8月と10月の2度にわたり、「アオキノブオ」という名前で埼玉県の調査事務所に被害者一家の身辺調査の依頼があり、依頼主は調査事務所から被害者宅の住所、被害者夫妻の(なし)を受け取った。 本籍の記載もある住民票の取得依頼もあったが、連絡が途絶えたため調査はされなかった( 2002年1月24日号、1月31日号)。 父親の死因は心臓・大動脈損傷による失血死。 長女は生前にと外傷性を起こしていた可能性がある( 2003年5月1日、1月8日号)。 2009年1月1日・8日新年特大号 以下の新事実とともに、初動捜査終了後の第一期捜査期間の混乱と現在も尾を引く影響、捜査指揮体系の問題、指紋捜査に執着する弊害、女性被害者に対する犯人の残忍な手口を取り上げている。 推定犯行時刻直後(30日23時半すぎ)、車を運転していた目撃者が被害者宅付近の路地から飛び出してきた若い男を目撃。 それから1年後、偶然にでこの若い男に似た男とすれ違い、特別捜査本部に連絡したが真面目に取り合ってもらえなかった。 侵入口は2階の浴室とされるが、出入りしたはずの浴室の小窓から繊維痕がまったく検出されていない。 また、靴の跡(足跡)も浴室からは発見されておらず、廊下からいきなり始まっている。 さらに、現在は否定されているが、初期には侵入口候補のひとつとみられていた玄関は、発覚時に駆けつけた警察や救急隊員によって、踏み荒らされてしまっていた。 現場に残された犯人ののDNAから、犯人は「のアドリア海沿岸民族の母系遺伝子を持つ人物」であることが判明しているが、第一線の本部員や多くのらには知らされておらず、本部の一部にしか情報が行き届いていない。 日本国外に犯人がいる場合、国内で行うの意味がなくなってしまうので、「外国人犯行説には強い拒否感」があるためである。 ICPOを通じ、日本国外の捜査機関に指紋照合などの捜査協力を求めているが事件の進展にはあまり期待は持てず、そのため、犯行説についても特別捜査本部の幹部らは強い関心を寄せていない。 また、バッグから「アメリカの砂」と酷似した砂が発見されており、特別捜査本部の幹部が2007年から2008年にかけて数回極秘に渡米しているが、捜査が終了しているにもかかわらずこちらの結果も第一線の本部員らには通達されていないままである。 軍隊経験者やグループの犯行という線は現在は完全に否定されている。 長男や父親はすぐに殺害されているが、女性被害者である母親や長女はすぐには致命傷を与えず、で顔面をえぐるなど何度も切り裂いている。 その後、犯人は一度その場を離れ台所にあった別の包丁を手に取り、重傷を負いながらも娘の治療を行う母親を目にして再び2人に襲いかかり殺害した。 週刊ポスト [ ] 現場で発見されている砂やテニスシューズなどから犯人は韓国やアメリカと接点がある人物の可能性が高い。 被害者夫婦が入会していたのようなの本部がアメリカにあり、日本と同じような支部が韓国にもある。 その組織が事件に関係している可能性がある( 2004年10月1日号)。 FLASH [ ] アメリカでに容疑で逮捕されたの供述により、事件を指揮したアメリカ・の男が判明。 男は別の強盗事件で5,000ドルのが懸けられ、されている。 また、男は事件の実行犯らが事件の翌日には日本を離れたと周囲に話しているが、この男ならその出国先も知っているはずである。 にもこれらの情報はFBIから直接渡っている。 被害者との接点について、男は事件前にアメリカにがあるヘッドハンティング会社の支店に勤めており、被害者はその会社に希望者として登録をしていた。 そこで、被害者宅の情報や状態などを知り、犯行に及んだのではないか( 2006年8月1日号)。 週刊朝日 [ ] 週刊朝日( 2007年1月5日・12日合併号)によると、新事実として以下の事柄を挙げている。 近所の住人が犯行時刻前後の23時30分ごろに聞いた「ドスンドスン」という大きな音は、犯人が2階踊り場にあったロフト(屋根裏部屋)へのハシゴを上げた音。 犯人が被害者宅のパソコンで閲覧したのは1度目(午前1時18分ごろ)が劇団四季のサイトなどで、逃走直前の2度目(午前10時ごろ)が被害者主人の会社のサイトなど。 被害者宅の缶から犯人の指紋や血液が採取されたが、警視庁の指紋自動識別システムで1000万人以上のデータと指紋照合を行ったが該当者は出なかった。 産経新聞の既報どおり、犯人の血液からDNAの人類学的解析で民族の鑑定は行われたが、現場に残されていた血液の状態がよくなかったため失敗に終わった。 産経新聞は鑑定作業に昔関わっていた研究者からの仮説情報をそのまま科学的根拠があるかのように報じてしまった。 警察は事件発生時刻直後の30日23時35分から40分ごろに現場付近から走り去った男の情報に囚われるあまり、のちにパソコンの通信記録から翌朝逃走したことが判明した犯人の目撃情報などを十分に捜査できず、初動捜査で大きなミスをしてしまった。 31日17時20分すぎに東武日光駅で、右手に深い怪我を負って駅の事務室で治療を受けていた30代の男についても、捜査員を派遣したのが1年後で有力な情報を得られず、現在も行方はわからないままである。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ目撃された犯人の服装とよく似た若い男は、実は事件直前の30日21時ごろにも被害者宅付近で目撃されている。 インターネットの書き込み [ ]• のペット大嫌い板(現・生き物苦手板)で、2000年の17時3分ごろ、当該事件の犯行予告ではないかと思わせるような書き込みがあった。 また、その他にも犯行前後の2000年12月26日および翌年1月4日において「」と「実行犯」がネットで連絡していたのではないかと騒がれた書き込みもあった(それぞれ「J9」「H」と名乗っていた)。 関連書籍 [ ]• 』()• 警視庁捜査1課の光真章課長は「内容がことごとく事実と異なっており、捜査に悪影響を及ぼす」などとする異例のコメントを発表した。 『世田谷一家殺人事件の真実』()• 竜崎晃『Kの推理 世田谷一家殺人事件 上智大生殺人放火事件』()• 『世田谷一家殺人事件 15年目の新事実』() 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• パソコンのネット接続履歴から犯人が翌朝まで10時間以上に渡って事件現場に留まっていたとみられていたが、2014年12月時点では31日の朝10時すぎの接続履歴が誤作動によるものと考えられており、夜間のうちに逃走した可能性が高まったとして捜査方針を修正している。 2015年3月22日に放送されたNHKスペシャル『未解決事件 追跡プロジェクト』では、指紋は全部で9箇所から発見されたことを紹介している。 ISOGG 6月27日更新版 ver. 170 の表記に基づく。 ただし、では、一日も早い事件の解決を願い、このトレーナーを当時販売していた会社の厚意と協力で、該当する4店舗の店名を公表している。 警視庁特捜本部の「 」ではとなっている。 書き込み元のスレッド『』の31・33番(事件前の2000年12月26日)および40・41番(事件後の2001年1月4日)にその形跡が残されている。 33番の投稿から丁度一ヶ月後(2001年1月26日)の、同一名義(H)による62番の投稿では33番の投稿と同一のIDが復活しており、H名義で投稿された34番(スレッドのテーマである作品の一ヒロイン名が書き込まれてあり、このヒロインは一家惨殺に遭っている設定)の電子メールアドレス欄には33番のIDが署名されている。 参考:(Conspiracy Watch)、(阿修羅、 2001年2月28日付より) 出典 [ ]• 記事名に被害者の実名が使われているため、その箇所を伏字とした。 MSN産経ニュース 2010年12月20日 2010年12月22日, at the. 朝日新聞 2014年12月12日• (探偵ファイル)• (警視庁成城警察署「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」 特別捜査本部)• (警視庁成城警察署「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」 特別捜査本部)• 「」 毎日新聞 2012年12月30日東京朝刊• 『東京新聞』2001年1月14日朝刊特報面16面「こちら特報部 世田谷事件から2週間 検証・一家殺害(上) 『覚悟なき凶行』 際立つ凄惨さ 『動機と残虐性 大きくかい離』 捜査員『あまりのむごさに涙が出た』 過去の事件『濃密な関係の被害者と犯人』」• 「世田谷一家殺人 事件後現場近くに置かれた地蔵を公開」 毎日新聞、2004年10月15日付• 「東京・世田谷の一家殺害、不審者2人のイラスト公開」 読売新聞、2004年12月9日付• 「世田谷一家4人殺害、犯人のバッグから外国洗剤の成分」 読売新聞、2005年11月21日付• 「犯人「漢字読む能力」、書類物色の跡 世田谷一家殺害」 朝日新聞、2005年12月10日付• 「母親が介抱?ティッシュに長女の血 世田谷一家殺害事件」 朝日新聞、2006年12月31日付• 毎日新聞 2011年12月20日 [ ]• MSN産経ニュース 2011年12月29日 2011年12月29日, at the. NHK『ニュースウオッチ9』 ピックアップ [ ]• 朝日新聞デジタル 2014年12月21日• (朝日新聞デジタル 2015年12月28日)• (読売新聞 2015年12月29日)• (朝日新聞デジタル 2019年12月13日)• (産経ニュース 2019年12月13日)• (まいどなニュース〈〉 2019年12月14日)• (産経ニュース 2015年12月29日)• (朝日新聞デジタル 2015年12月14日)• (朝日新聞デジタル 2016年9月12日)• (東京新聞 2019年11月16日)• (朝日新聞デジタル 2020年1月18日)• (日本経済新聞 2020年1月18日)• ( 2020年1月18日)• (警視庁)• 2典Plus「」、書き込み元のスレッド『』の170番 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキニュースに関連記事があります。

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青空てにをは辞典 「~であろう」

市川いっかさつがい 犯人

4月11日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」もその3になります。 今回は、日永の追分からいよいよ伊勢街道に入ります。 日永の追分で、スタートから5. 4㎞、時刻は11時15分。 スタートしたのが9時半でしたから、1時間45分ほど歩いてきました。 寄り道をかなりしていますから、こんなペース。 実測ルートマップでは、日永の追分と書いたところの東にある三叉路がそれです。 旧東海道は、ここから南西へ向かい、伊勢街道はここが起点で南へ下っていきます。 西から東を向いて撮った写真(逆光です)。 鳥居が見えています。 これは桑名の七里の渡しに建てられた「伊勢一 の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれました。 鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初です。 その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である(いざわのみや)の鳥居を移建して建替えられました。 当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居を くぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。 現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。 元々あった道標は、明暦2(1656)年に建てられたもので、現存する灯街道の道標としてはもっとも古いものです。 これは、現在は、日永神社の境内に移されています(日永神社で見て来ました)。 今あるものを見ると、嘉永2(1849)年に桑名・魚町の尾張屋文助が建てたとあります。 現在、桑名・魚町に尾張屋という屋号の店はないと思いますが、近くの吉津屋には仏壇屋さんが、北寺町には酒屋さんがそれぞれ同じ屋号であります。 常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。 手水所。 この水は、西に位置する丘陵地(泊山(登城山))からの湧水です。 昭和4(1929)年、地元実業家・稲垣末吉が、泊山に別荘を建てた時、掘った井戸からとても良い水が湧き出したので、自費で配管を敷設して、日永の追分まで引き、旅人達に供したのだといいます。 稲垣末吉の頌徳碑が、日永小学校にありました。 「追分鳥居の水」と呼ばれ、名水の評判が高く、たくさんの人が汲みに来ます。 写真にも女性がお一人、汲んでいらっしゃいます。 伊勢街道に入りましたが、内部川を越えるまで立ち寄りポイントは指定されていません。 左の写真は、伊勢街道に入ってす ぐ、小古曽と大治田の間あたり。 今は工場地帯になっていて、あまり味気ない道を2㎞ほどひたすら歩く積もりでしたが、途中で表忠碑と平和の礎を見つけました。 大治田三丁目のところ、道の向かい側でしたから、ズームで撮影。 向かって右(南)が表忠碑。 大正3(1914)年3月に河原田村が建立したもの。 明治10(1877)年の、明治 27・28年の、明治33年の(義和団の乱)、明治37・38年のの際の、河原田地区内忠死者16名と従軍者69名の名前が刻まれています。 向かって左の平和の礎は、もとは昭和30(1955)年5月に河原田小学校に設置されたものを、平成23(2011)年11月、ここに形を変えて建立されたもの(河原田地区遺族会による)。 西南の役、日清戦争、日露戦争、、の際の河原田地区内戦死者113名の名前が刻まれています。 7㎞を過ぎて、内部川を渡り、河原田の町に入ります。 伊勢街道には木造の橋がかかっていたのですが、現在はありません。 県道103号線の橋に迂回します。 左の写真は、河原田に入ったあたり。 又兵衛橋という名前の何やら由緒 のありそうな橋を渡っていきます。 名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきているそうです。 昭和13(1938)年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であったといいます()。 河原田小学校の手前、采女道との交差点に「里程標(距離標)」があります。 「距 名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「距 宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「距 津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」と刻まれています。 中央あたりで割れたのか、継いだ跡があります。 このあと、若干迷い、指定されたコースよりも早めに曲がってしまい、河原田神社に行くまでにちょっとウロウロしました。 これは二の鳥居。 一の鳥居はあとで見ることになります。 明治42年に南北河原田及び内堀各村6 社を合祀して創建されました。 貝塚境内に山ノ神が4基あります。 この鳥居からそのまま境内に行くとなると、右の写真のようにかなりの階段を登らねばなりません。 そこで、向かって左手にある迂回路を上っていきました。 河原田神社の境内にたどり着く直前に、三神山毘沙門天があります。 ここについては、説明板もなく、また、ネットでも情報は出てこず、詳しいことは分かりません。 河原田神社の拝殿。 明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。 平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年に再建されています。 ご祭神は、、、(ミツハノメノカミ;伊奘冉尊が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれ、水の神としてまつられます)、、、、、、、、、、の他、神社検索三重のサイトによれば、不詳八座とあります。 合祀していますから、たくさんの神様がいらっしゃるのは分かりますが、それぞれなぜここに祀られているのか、分からないところもあります。 河原田の西部にある丘陵地帯は、その昔海だったそうですから、上筒之男命ほか住吉三神(すみよしさんじん;海上交通安全の神)が祀られているのはよく分かります。 境内、拝殿に向かって右には、山の神と刻まれた石が4つ。 町内にあったものがここに合祀されたのだと思います。 今では、ど こに祀られていたのかも定かではないかも知れません。 拝殿の北には、頌徳碑が2つ。 向かって左は、「熊沢市兵衛翁頌徳碑」です。 熊澤家は農家で河原田の旧家で地主で、代々津藩・藤堂家の御金御用達の役を務めていました。 熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征にしたがい、明治になって四日市に帰郷しました。 明治時代に若くして三重県議会議員になり、河原田村の村長などの名誉職にも就いています。 は、農村出身の農民の家柄でしたが、勉学の必要性に気づき学問を重視していました。 明治42(1909)年には河 原田尋常高等小学校の建築費の一部を寄付しています。 大正時代、皇太子であった裕仁親王の成婚時には、河原田尋常高等小学校の講堂を新築する費用の寄付と、入学志願者が少なくて不振だった三重郡立農学校(現・三重県立四日市農芸高等学校)に対しても、長男のと協力して3万円と広い敷地を寄付しました。 さらに、『熊沢奨学資金』を新設して、貧困家庭の子供たちの学業の補助をしています。 また、河原田地区の西部丘陵地帯には、明治後半に熊沢市兵衛翁がみかん栽培を伝え、今も「河原田みかん」として親しまれています。 境内には、他に「神武天皇遙拝所」がありました。 は橿原市の畝傍山(うねびやま)の北東にありますからそちらの方角を向いていると思います。 続いて、河原田神社の西隣にある「忘帰處(ぼうきしょ)」へ。 河原田神社のある三神山頂上にあります。 こ こから見る眺めは河原田随一の景勝地だそうで、伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に、この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということから「忘帰處」と名づけられています。 標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるもので、昭和8(1933)年10月、88歳になった熊沢市兵衛翁が建てています。 山上からの眺めは一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることができる絶好の名勝地です。 この写真が、「忘帰處」から見た東の方角。 この日は、説明にあったように、木曽御嶽山もよく見えていまし た。 しかし、樹木がかなり茂っていて視界を妨げていました。 右の写真は、「忘帰處」の石碑(右上の写真)のところに上がって眺めたもの。 こちらの方が、当たり前ですが、よく見えます。 見とれて帰るのを忘れるという気持ちは何となく分かります。 「忘帰處」の石碑の背後には、「宇賀御魂神」と刻まれた石碑が建っています。 「神社」とあるのかも知れませんが、確かめ られません。 に関わるものと思いますが、これについての説明はなく、詳細は不明。 忘帰處でしばし休憩していましたが、帰るのを忘れないうちに、降りて次の目的地へ向かいます。 帰りは、あの急な階段を降りて、正面の参道に出て来ました。 なかなかよい感じの神社でした。 伊勢街道に戻り、四日市農芸高校や、JR関西線・河原田駅の近くを通って進みます。 実測ルートマップは、その3に入っていました。 河原田神社、忘帰處あたりでスタートから8㎞。 12時20分過ぎ。 食事をするようなところもありませんので、鈴鹿市駅についてお昼ごはんにすることとし、歩き続けます。 9㎞を過ぎて、鈴鹿市に入ったあたりに、臨済宗妙心寺派の善誓寺がありましたので、ちょっと立ち寄らせてもらいました。 し かし、由緒書きなどもなく、ネット検索でもこれという情報は出て来ません。 鈴鹿に入ったところで、それなりに切りもよいので、その3はここまで。 その4で鈴鹿に入ってから見てきたところを書き、ゴールする予定です。 世間ではというか、マスコミでは「平成最後の日」で盛り上がっています。 私自身としては、いささかの感慨はあるものの、 普段と同じ1日という感じで過ごしていました。 「いささかの感慨」というからには、それなりのことがありますが、あとで触れます。 「普段の1日」というのは、ブログのタイトルの下にも書いてありますように、「淡々と飽きもせず」というのをモットーの1つにしているからです。 具体的には、雨模様の1日でしたし、5月3日(金)に相談会を予定していますので、その準備に勤しみ、合間にメダカの水槽の水替えをしていたという次第。 「いささかの感慨」というのは、平成2年4月に結婚しましたので、私にとって平成というのは、自分の家族を形成し、発展してきた時代ということが大きいように思います。 また、平成を迎えた年は、最初の職場である国立療養所S病院に奉職していましたが、平成4(1992)年には、N市立大学に転職。 教育研究の仕事に就くのは、元々の希望でしたので、それが叶ったということでした。 転職先は、短大でしたが、平成11(1999)年には4年生の学部に改組。 この年、学位を取得でき、教授職に昇格しました。 平成15(2003)年には、本務先は大学院を設置し、私もその教員を兼担することになり、仕事の面では充実しました。 しかし、多忙を極め、勤務先から寝るために自宅に通うような、尋常ではない状況が続いていました。 それが祟ってか、平成16(2004)年頃から体調が悪くなり、平成17(2005)年になっていよいよ体調不良を来たし、病休や休職をせざるを得ない事態に陥りました。 その後は復職や休職を繰り返す羽目になり、あちこちに迷惑をかけるとともに、不本意な時期が続きました。 平成23年(2011)年秋に至って休職が許される期間が満了し、退職せざるを得ませんでした。 治療は続けていたものの、それは奏功せず、悶々とした日々を過ごしていました。 体調不良の原因が明らかになったのは、平成26(2014)年8月でした。 あるホルモンが不足していたことが明らかになり、その補充療法を受けてようやく体調が回復したという次第。 このとき、退職から3年近く経ち、すでに59歳。 社会復帰するにはやや遅く、また、そのタイミングも失っていましたので、やむなくそのままの生活を続けました。 その後、縁あって、江戸橋方面で非常勤の仕事を得られ、今日に至っています。 また、この間、いくつかの研究会に関わったり、研修などの講師を依頼されることもあり、また、地元自治体で特別支援教育関係の仕事にも携わる機会を与えられました。 何事も現実を受け容れることから始まると思っていますし、自分の身に起こることは、自分の身の丈に合っているのだと思うようになりましたので、これがちょうどよいと思って過ごすようになっています。 今は与えていただいた、決して多いとはいえない仕事をしつつ、散歩やバードウォッチング、写真撮影、鉄道会社主催のハイキング、ウォーキングへの参加、歴史散歩、読書で日々を過ごすようになりました。 自分ではお気楽に過ごしているとは思ってはいませんが、世間の皆様から見れば、悠々自適と見られるかも知れません。 いつの間にか60歳代半ばに至っていますから、今さら慌てるとか、焦るとかそういうことはしないで日々を楽しみ、お役に立てることがあればそれなりに貢献したいと考えています。 しかし、自分がする意味がないと思えることや、無理だと思えることはしないで済ませたいとも思っています。 論語にあるように「四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないように」というのは理想なのでしょうが、未だに迷い、天命をわきまえているとはいえず、人のことばも素直に聞いているとはいえませんが、思うままに振る舞って道を外れないようになれればありがたいと思います。 皆様には、令和の時代を迎えても引き続きご交誼のほど、お願い申し上げます。 平成も残すところあと2日、などと柄にもないことを書いています。 それなりの感慨はありますが、大騒ぎすることはないと思っ ています。 天気は下り坂ですが、日中は大丈夫ということで、いつも通りの日課。 8時半から11時頃まで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町、田町と散歩というか、巡回というか、してきました。 6㎞ちょうど。 九華公園のつつじは、天候が安定しないせいか、開花があまり進みません。 いつもの年なら、公園内すべてで満開になっているのですが、今年はバラツキがかなりあります。 早くに咲き始めたつつじでは、もう花が傷んできてしまっています。 新しい管理人さんとよく話すのですが、神戸櫓跡に1本だけ、赤い花が咲くつつじがあります。 前から注目していて、これを何とかきれいに撮りたいと思っていますが、なかなかうまく行きません。 今日は、曇天ですからさらに難しい。 天気が回復してからではどうかと思い、今日の写真を載せます。 「何の写真?」とお思いでしょう(笑)。 揖斐川と長良川の中洲です。 昔から「十万山」といわれています。 ここに毎年、オオ ヨシキリがやって来ます。 数日前から声がしていたような気がしますが、今日、ハッキリ確認しました。 「ギョギョシ ギョギョシ ギョギョシ」といった鳴き声です。 ただ、まだ数が少ないですし、距離がありますから、カメラの動画で撮っても鳴き声は聞こえないと思います。 右は、去年5月11日に三ツ又池公園で撮った()。 九華公園は相変わらず静かです。 天候もスッキリしませんから、散歩の人も少なく、鳥もいません。 しかし、鳥の雛の姿が見られるようになり、ちょっとだけ嬉しい(微笑)。 奥平屋敷跡で、カワラヒワがいるなと思って撮ったのが、この写真。 遠いところから超望遠コンデジで。 色からして、カワラヒワの雛でしょう。 人に対する警戒心もまだ薄いようですし、餌をとるのに注意が向いていたと思われます。 無事に育って、また楽しませて欲しいと思います。 カモはまだまだ12羽が滞在中。 キンクロハジロのみ。 もうあまり目を向ける人もいません。 朝早くに餌を与える人はいるかも 知れません。 カモたちはのんびり過ごしているように見えます。 二の丸跡や、本丸跡では、コゲラが餌探し。 2羽が、公園内を移動していました。 営巣してくれるときもあるのですが、今年は巣は見つけられていません。 巣といえば、辰巳櫓跡の西に鳥の巣が落ちていました。 枯れ草と羽毛でつくられています。 いつも持ち歩いているコクヨの 「」と比べてみると(ちなみに、を使っています。 5cm)、直径8cmくらい。 お椀のような形をしています。 このあたりは松の木が生えているところ。 エナガやシジュウカラは、巣材にコケを使うようですから、これらの巣ではなさそう。 カワラヒワは、枯れ枝や細根等々を使って椀状の巣を造るといいます。 九華公園で見られる鳥からすると、カワラヒワの巣かという気がします。 ので調べてみますと、次の条件で検索した結果、「お椀の縁が厚め、巣材に枯草等」であるのは、カワラヒワと候補が挙がってきました。 市街地の鳥 巣の場所は:樹上、枝上 巣材は:枯れ草・コケ 巣の形は:お椀形 大きさは:直径13cm未満 さて、このあとは、ツバメの巣チェックの結果。 左の写真は、京町の呉服屋さんにある巣。 3つあるうちの1つに、親ツバメが出入りしたり、座っていたりし ます。 何か咥えているのですが、ヒナはいないようです。 右は、田町にある商店の巣。 ここは2つあるうちの南側の巣にツバメがいます。 泥を咥えて、修復作業中に見えました。 田町にある別のお宅の巣。 去年は使われていませんでした。 ここも泥を咥えてきて、修復中のようで、2羽が出入りしていました。 今のところ、9ヶ所ほど見ている中で、この3ヶ所で営巣しそうな様子です。 天皇陛下の代替わり、改元の頃は、雨模様のようです。 相談会の準備をスピードアップしなければなりませんので、連休ではありますが(私のような立場では、連休も何も関係はないのですが……)、励まなくてはなりません。 ゴールデンウィークですから、ハイキングが終わったら家内の実家へ行って、義母に会ってこようということもあるのです。 今日のハイキングは、近鉄名古屋線・津新町駅が受付(9時半~10時半)。 桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車。 9時49分に到着。 ¥750。 ゴールデンウィークとあってか、電車はかなり混雑。 座れません。 いつも江戸橋へ仕事に行くときに乗る電車ですが、比較にならないくらい混んでいました。 四日市から乗ってきた高齢の女性が話しかけてこられ、着くまでしゃべっていました。 お一人で「平成最後の伊勢参り」に行くということでした。 お元気です。 本日のコースマップ。 津新町駅を出て、三重刑務所、市杵島姫神社(このあたりは旧伊勢街道)、阿漕町の神明神社、山二造酢 (酢の試飲あり)、結城神社(梅の名所)、阿漕浦海岸を歩いて、高虎ドッグ、T2菓子工房、ラーメンいたろうでグルメを楽しみ、津新町駅へ戻るという7. なのですが、はじめに書いたように、家内の実家へ行くつもりでしたから、岩田橋で松菱百貨店に立ち寄ることにし、また、個人的にここをゴールに変更(笑)。 実際に歩いたのは、右のマップの通り。 松菱百貨店で7. ここから三重交通のバスに乗って、家内の実家へ行ってきました。 津新町駅をスタートしたのは、9時55分。 津新町駅北の踏切を渡って東へ。 500mあまりで右折し、昭和橋を渡ります。 スタートから1㎞弱で。 どういう風か、 立ち寄り先になっていました(笑)。 鈴鹿で働いていた若い頃から、ここに刑務所があるのは知っていました。 男性受刑者に限り、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいない人たちを収容しているそうです。 見ていたら、古いレンガ組みの門が残っていました。 大正5(1916)年に建築された監獄正門です。 「安濃津監獄」の文字が右から左に書かれています。 現在は塀の外にあり、門としての機能は果たしておらず、歴史的資料として保存されています。 近くまで寄って見ていましたので、監視カメラでチェックされていたかも(笑)。 三重刑務所の先で左折し、国道23号線を越えます。 この先しばらくは、旧・伊勢街道を通っていきます。 スタートから2. 3㎞ ほどのところに真教寺という、天台宗のお寺があります。 地元では、「閻魔(えんま)堂」として知られています。 津の守護として、慶長19(1607)年、津藩主・藤堂高次公により町の入り口に建立されました。 閻魔王座像や円空作十一面観音立像などがあります。 十一面観音立像は、円空の作としては屈指の大きさだそうです。 真教寺は今も残る古い町並みの北端にあり、ここから南、伊勢街道沿いには往時の景観を今に伝える建物群があります。 真教寺のすぐ東にあるのが、。 伊勢参宮街道沿いになります。 津市のガイドブックを見て一度来て見たかったところです。 大昔には庚申塚でした。 市杵島姫は、南朝の重鎮であった北畠氏一族の守護神として北畠氏滅亡まで受け継がれました。 そのご神体を、天正4(1576)年の岩田川の戦いで敗れたとき、北畠氏の家臣が岩田の清長院へ預けたものがこの土地に移ったということです。その後、この地の産土神様にっています。 万物の生命をつかさどる水の神、音楽芸能、子孫繁栄の神様として崇敬され、付近の人々は、「弁財(べざい)さん」と親しみをもって呼んでいましたから、このあたりには弁財町の名がついています。 主祭神は、。 相殿神は、建速須佐之男命、宇迦之御魂命、大物主神、猿田毘古神、大山津見命、天照皇大御神、徳川家康、事比良神。 この神社には、青銅製の「湯立釜」があります(市指定文化財)。 釜屋町(現・北丸之内)の辻氏と並び称された中山村(現・津市栗真中山町)の鋳物師・阿保氏の作(元文5(1740年鋳造)。 境内には樹齢が400年とも500年ともいわれる、大きなイチョウの御神木があります。 周囲は約4m。 昭和20(1945)年の津空襲の時、湯気のようにもうもうとしたものが出て御神殿をつつみこみ焼失を防ぎ、風の向きもかえ火の手を止めたといわれています。 市杵島姫神社を出てすぐのところには教圓寺(真宗高田派)があり、それを過ぎて130mほどで阿漕町のがあります。 ここは一風変わった神社で街道脇に鳥居があるのですが、そのすぐ奥が拝殿となっています。 鳥居も拝殿も小振り。 江戸時代の絵図には「一万度祓納社」として描かれているそうです。 説明板によると、悪病が流行して町中がとても苦しんだ時に、人々が相談して阿漕町の中心部に神社を祭り祈祷したところ、病が治まったことから、町の守護として信仰を集めるようになり、毎年4月8日に大祭が催されるようになったといいます。 氏子の方がいて説明をしてくださいました。 珍しいことに、御祭神(大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト;天照大神の異称)は屋根に作られた天窓の上に祭られています。 写真撮影の許可をいただきましたので、拝殿前でかがみ込んで見上げて撮ってきました。 このため、地元では「まんどさん」と呼ばれています。 あたりで「様」というのは見たことがありますが、このように屋根の上に祀られ、それを天窓を通してお参りするというのは初めてでした。 神明神社からすぐ、街道の西側にあるのが、次の立ち寄り先である。 古い建物で、外には大きな看板などもありませ んので、危うく通り過ぎるところでした。 明治20(1887)年創業。 今日は、酢の試飲ができるということで、ショウガとゆずが入ったGin-Vine ジンビネ)というものをいただきました。 家内からは、冗談半分で「一升瓶に入った醸造酢を買ってきて」と所望されたのですが、残念ながら一升瓶に入ったものは売っておらず(笑)。 義母への土産にを買ってきました。 昔ながらの酢です。 山二造酢さんからさらに伊勢街道を南下。 昔風の連子格子の建物が残っていますし、卯建が上がっている建物もたくさんあります。 スタートから3㎞地点で左折し、東に向かいます。 次は、に行きます。 ここは梅の名所で、前々から是非とも訪ねたかったところ。 本来であれば、梅の季節がよいのはいうまでもありませんが、今年はその時期にハイキングもウォーキングもなかったのです。 御祭神は、。 他に、結城親光以下殉難戦没将士が祀られています。 結城宗広(?~延元3(1338)年)は、南北朝時 代の武将。 元弘の乱では、初め鎌倉幕府軍に加わったのですが、のちに後醍醐天皇方に転じ、新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼすなど、「建武新政」の樹立に貢献しました。 延元3(1338) 年、北畠親房らとともに陸奥経営に派遣されることになり、伊勢大湊から出航したのですが、暴風雨のため宗広は安濃津 (三重県津市の港の古称)に漂着。 まもなく病死しました。 ここは、古くから結城の森と伝えられ、結城塚とか結城明神とよばれてあがめられて来ました。 結城宗広公の立派な墓碑があり、300本の華麗なしだれ梅でも有名です。 結城神社に着いたのが11時15分、30分も境内を見て回っていました。 結城神社を出て東へ300mあまり行くと、阿漕浦の海岸に出ます。 今日は、風が強くちょっと寒いくらいでしたが、見晴らし は抜群。 北にがありますので、海にはヨットもたくさん出ていました。 ここからは、1㎞あまり、海岸の砂浜を歩きます。 ヨットハーバーの手前でちょうど昼になりました。 高虎ドッグが目の前ですが、ここは超人気店で、休日など駐車場は一杯で、店に入る階段まで人が並んで待っています。 たぶん入れないだろうと思って、いつも通り、コンビニ弁当を調達していましたので、砂浜の階段に座って、お昼にし、12時20分に再出発。 案の定、満員御礼。 となりにあるT2菓子工房は、パス。 はじめに書きましたが、今日は、松菱百貨店の前(岩田 橋バス停)からバスに乗って、家内の実家へ行くつもり。 時刻はチェックしていませんでしたが、久居駅が毎時15分頃ですから、逆算すると12時50分前後の発車のはず(昼間の時間帯は、1時間に1本)。 岩田川沿いを急ぎました。 右は、岩田橋。 渡った先に松菱百貨店があります。 左手に少し見えている大きなビルは、中部電力の津支店。 ここで7㎞。 12時40分。 前に12時45分に到着。 今日は、ここが個人的ゴール(笑)。 バスの時刻を見たら、12時55分発でした。 松菱で土産(と平治最中)を買って、バスに乗車。 家内の実家へ(¥730)。 家内の実家からは16時29分のバスで久居駅へ(17時2分着、¥530)。 17時7分の名古屋行き急行に乗り換え、桑名には17時58分着(¥820)。 平治煎餅は、に因む、津の銘菓。 あみま倶楽部のスタンプは16個目をゲット。 ALKOOのデータは右の写真の通り。 ハイキングで歩いたのが7. 1 ㎞、桑名駅までの往復が1. 8㎞ですから、合計8. 9㎞のはず(キョリ測のデータ)。 8㎞は歩いていません(バスがゆっくり走ったときなどをカウントしていると思います)。 本編は、4月11日の近鉄ハイキングから滞っていますので、少し先になりそうです(微笑)。 気温も昨日より9度ほど低い16度にしか上がりませんし、何といっても北西の冷たい風が吹きまくり。 久しぶりにウィンドウブレーカを出してきて散歩です。 8時20分から11時過ぎまで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、吉津屋通り、京町、田町と6. 寒かった(苦笑)。 貝塚公園でキビタキに遭遇しました。 私のいつもの散歩コースでは、通りがかるだけのようで、滅多にお目にかかりません。 オス、メスともに、九華公園や貝塚公園でそれぞれ2~3回見たくらい。 今日も、貝塚公園に着いたときには、鳥の鳴き声もほとんどしなかったのですが、公園内を回っているとき、東屋近くで「何か飛んだ!」と思って探したところ、東屋の東に出て来ました。 ちょっと慌てたせいもあって、あまりきれいに撮れなかったのは残念。 しばらくいてくれないかと思うのですが、これまでの目撃経験では、その日限りですから、期待はできないかも。 さて、ゴールデンウィークに入り、木々の葉っぱも青々としてきて、目に鮮やかです。 諸戸氏庭園前のマイ・ソメイヨシノも、 ご覧のように青々としています。 右は、柿安コミュニティパークの様子。 公園の東側、揖斐川の堤防から西を向いて撮った写真。 奥の方には藤棚も小さく写っています。 ここで灯街道・桑名宿のメインイベントが行われますし、平日にはグラウンドゴルフもプレイされます。 住吉入江から揖斐川まで、今日もカワウしかいませんでした。 九華公園、強風のせいか、散歩する人は少なく、野球場で行われている中学生の野球の試合の歓声だけがよく聞こえていま す。 鎮国守国神社では、氏子の方が5月2~3日に行われる金魚まつりの準備をなさっておられました。 つつじはボチボチです。 左は、朝日丸跡にて、青紅葉をバックに見上げてみました。 右は、神戸櫓跡からの景色。 1本だけ、真っ赤な花が咲くつつじがあります。 九華公園の中は、野鳥はほとんど見当たりません。 キンクロハジロは、19羽が滞在。 強風であの「寝癖」が目立っています。 去年の10月半ば頃から来ていましたが、今年はあと何日いてくれるでしょうか? 知人と話していたら、足下にスズメが寄って来ました。 別に「餌をくれ」といっているわけではなく、左の写 真のように虫を咥えていたりします。 今日、九華公園でもっともたくさんいたのは、スズメ。 3月頃から繁殖するといいますから、ヒナへの餌かも知れません。 去年は、5月10日に九華公園でヒナを確認しています(2018年5月10日:)。 貝塚公園。 つつじがご覧のような姿になっています。 たいていは、九華公園にあるように丸く仕立てられていると思うのですが、春先に下の方をバッサリと剪定してしまったため、このようになっています。 これが自然な姿なのかも知れませんが、違和感があります。 それに、つつじの植え込みによくウグイスがいましたが、これでは隠れられないので、ウグイスも来ません。 貝塚公園に着いたときには、鳥はムクドリくらいしか見当たらなかったのですが、歩いているうちにツグミが1羽登場。 その 後、はじめに書いたようにキビタキまで見られました。 その他、シメも1羽いました。 貝塚公園でシメを見るのは珍しいことです。 シロハラは、九華公園でも、貝塚公園でも見なくなりましたので、もう帰ってしまったと思われます。 吉津屋通りに回ったのは、寺町堀の南にある吉津屋堀沿いの藤棚に白い藤があったので、それを確認しようという次第。 ここ には3つの藤棚があるのですが、行ってみたら、ご覧のような有様。 九華公園の本丸跡の藤棚も似たような状況ですが葉っぱは繁っているものの、花が少ない、房が短いということでした。 ちょっとガッカリ。 白い藤は、左の写真の藤棚の奥にあるのですが、これも右の写真のような様子。 桑名市も、公園の樹木は植えっぱなしで、剪定はするものの、施肥など手入れをしないようですから、こんなことなのでしょう。 もうちょっと手入れをして欲しいところ。 そういう中では、昨日も載せましたが、内堀南公園の藤は、それなりに見られます。 ひょっとしたら地元の方が何かしてくださっているのかも知れません。 この公園には桜の老木もありますが、地元自治会の方々が、花見をしておられたり、金魚まつりの準備や、待機場所に使っておられるのを見ますから。 ツバメの巣も、昨日に引き続き巡回してきました。 京町の呉服屋さんの巣には、親鳥が1羽座っていました(左の写真)。 ここ は営巣してくれると期待しています。 また、田町の商店にある2つの巣のうち、南側には親ツバメが2羽いました(右の写真)。 こちらも毎年営巣していますから、今年も確実と思っています。 その他、巣を修復していた、博物館の玄関先と、田町のお宅の巣はツバメはいませんでしたが、修復したからには卵を産むと期待しています。 10連休が始まりましたが、私には実質、ほとんど関係ありません(苦笑)。 世の中に逆らっているわけではありませんが、リタイアしてブラブラ(フラフラ?)していますから(笑)。 連休の間、天気もいろいろのようですし、5月3日には相談会を予定しています。 現在、その準備を進めていますが、近鉄ハイキングなどにも出かけたいと思い、週間予報とにらめっこ。 家内の実家も訪ねたいと思っています。 4月30日、「平成最後の日」には実家方面でハイキングが予定されているものの()、この日は雨模様という予報。 代わりに明日、津であるハイキング()に行ってこようかと思ったりしています。 コースにある「」は魅力なのですが、ここは普段から人気の店。 大賑わい必至。 はまぁよしとして、も行ってみたいところなのですが、梅の名所ですからちょっと時期はずれ。 う~む、思案のしどころ(笑)。 4月11日の近鉄ハイキング「」のその2です。 前回、大聖寺まででしたが、3㎞も来ていません(苦笑)。 ボチボチ、ゆるりと行くことにします。 地名でいうと日永の町を歩いています。 前回見てきた東漸寺あたりから、今日書く両聖寺付近の東海道は、初めて歩くところです。 スタートからほぼ3㎞のところに、日永山興正寺という真宗高田派のお寺があります。 貞観6(864)年の創建。 もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)に あり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、が当寺に立寄られたときに改宗しました。 その後200年程して、真宗高田派第十世・が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。 天文13(1544)年、真宗高田派第十二世・は、ここ興正寺で「日永千部」というこの寺の復興勧進法要を勤め、興正寺が高田派の有力な末寺になったといいます。 天正2(1574)年、現在地に移ってきています。 秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年にから寺領の寄進と諸役免除を受けているといいます。 滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などの文書が残っているそうです。 寺の蕎麦を流れる天白川が、寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたという話もあり、この堤を昔の人は「滝川堤」と呼んだそうです。 興正寺の先で天白川を越えると、すぐに林光山弘願院両聖寺があります。 浄土宗のお寺。 最初は、天台宗林光山西教院と称し ていましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。 それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。 第三代道阿玄忍上人のとき、前期の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。 明治40(1907)年、両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀されています。 両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「」が今に伝わっています。 踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年には発祥400年を迎えます。 この起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。 なお、元和6(1620)年の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には現在のような「つんつくおどり」があったと推測されています。 両聖寺から200mあまりで、に到着。 ここは、一昨年12月17日にJRさわやかウォーキングで訪れています(2017年 12月19日:)。 昔は南神明社と呼ばれていました。 明治40 1907 年以降日永神社というようになりました。 建仁年間 1201-1204 頃に創建されたといわれています。 天正年間(1573-1592年)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しています。 その後、再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。 明治40(1907)年11月、岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41(1908)年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44(1911)年9月に稲荷社を合祀しました。 ご祭神は、、(あめのたぢからおのかみ)、(たくはたちぢひめのみこと;天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ)、、、(はにやすひめのみこと;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生した。 ハニは土のこと)、、(オオモノヌシノカミ;奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神)、(オオヤマツミノカミ;山をつかさどる神)、道反之大神(チガエシノオオカミ;黄泉の国へとイザナミを迎えに行ったイザナギがそこで、腐り蛆にまみれ穢れたイザナミを見て、逃げ出し、黄泉の国と現世の間に大きな岩(千引き岩)を置いて塞ぎました。 その岩のことをいいます)、(ウカノミタマノカミ;五穀、食物をつかさどる神)です。 境内には、追分旧道標があります。 明暦2(1656)年に(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)です。 嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。 正面に「大神宮」と刻まれ、左面に「山田」、右面に「京」と刻まれています。 この「石造旧日永の追分道標」は、今年3月26日、四日市市の有形文化財に指定されました。 ここにも、皇大神宮遙拝所があります。 「皇大神宮」は、もちろん、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである「内宮」のことです。 「遙拝」は、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことですから、この方角に伊勢の内宮がある訳です。 この皇大神宮遙拝所の石碑は新しいのですが、昭和57(1982 年に建てられています。 日永神社のすぐ南隣に、長命山薬師堂があったのですが、この日はすっかり失念して、通り過ぎました(2017年12月19日:)。 市指定文化財である薬師如来座像が納められています。 鎌倉時代中期の作とされ、元は伊勢安国寺の旧像。 天正年間 1573~1592 、安国寺炎上の時、日永村のに運び出され、その境内の小堂で内仏として信仰されていたものが、文化13 1816 年、ここに移されたといいます 説明板による)。 実蓮寺は、日永小学校の東(日永カヨーの裏手)に現在もあります。 滝川一益が菩提寺とし、一益の母親の墓もあるそうですから、見たかったのですが、今回もパスしました。 日永神社から長命山薬師堂を挟んですぐ南が、日永小学校。 その敷地内に、日永出身の実業家・「稲垣末吉翁頌徳碑」と「表忠碑」があります。 稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方です。 稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。 地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された方です。 「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立されています。 揮毫者は、元帥公爵の。 スタートから4㎞、10時40分頃に雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)。 浄土真宗高田派のお寺。 永禄2(1559) 年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。 江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世に帰依して浄土真宗となり、本尊を賜っています。 寛文元 1661 年には西唱寺と改められました。 正徳2(1712)年、中川十兵衛尉が、聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に願ってここに留まり、享保2(1717)年、ここで没しています。 西昌寺には、寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。 戦後、昭和21(1946)年から35(1960)年にかけて順次、庫裏、梵鐘、本堂、書院が再建されて今日に至っています。 境内に、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があるのですが、に続いてまたもや、見てくるのを失念。 さて、この西昌寺あたりから、実測ルートマップは2枚目になります。 四日市市もかなり南のエリアに入っています。 四日市あすなろう鉄道と国道1号線の間を南下しています。 東には、日永カヨーという大きなショッピングセンターや、県立四日市工業高校があります。 日永の追分も近くなってきました。 西昌寺から南へ100m足らずのところに「」の石碑が建っています。 県指定史跡(昭和13年4月指定)。 四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。 日永の一里塚は、江戸からちょうど百里だそうです。 塚はもとは5m四方で高さ2. 5mの塚が灯街道の両側に築かれていたそうです。 「(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれているといいます。 西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。 家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみで、ウッカリしていると見逃します。 5㎞地点を過ぎたあたりに「東海道名残の一本松」があります。 旧・東海道の東側に立派な松の木が一本、立っています。 かつて、ここ日永の集落と、泊村の集落との間は、家は一軒もなく、松並木の縄手道だったそうです。 今では、この一本松だけが今に残り、往時を偲ぶよすがになっています。 そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。 たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。 縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。 現在の道幅もほぼ同じです。 写真はいったん通り過ぎて、南から撮ったもの。 時刻は11時、スタートして1時間半。 9㎞を歩いてきて、のども渇いたなと思ったところで、今日の立ち寄りスポットである「」さん。 あすなろう鉄道・泊駅近く。 ここで、熱いお茶の接待をしていただけました。 創業60年だそうです。 80代を迎えた初代店主自らお茶をくださったのですが、さすがお茶屋さん、香りも味も家庭では出せないものでした。 しばし歓談の相手もしてくださり、よい休憩となりました。 泊の町から追分へ。 お茶のやまなかさんを出て300mほどで、があります。 ここはまちかど博物館。 以前にも来ており、たぶん3回目。 ここには、郷土の歴史・民俗・文化を後世に継承するとともに、それらを学ぶことができるようにと、日永郷土史研究会を中心とした準備委員会が、土蔵付きの商家の建物を借りして開いたところ。 日永の名産であった「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地元に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料が展示されています。 やまなかでお茶はいただきましたが、同行のMさんと今度は「小腹が空いた」ということになって(微笑)、資料館で出張販売されていたさんの「」を買って食べることに。 采女は、国道一号線で内部川を越えたあたりの地名。 今年3月2日の近鉄ハイキングで訪れた「杖衡坂」のあるところ()。 日本武尊が伊吹山の賊を平らげ大和へ帰還の道すがら、負傷した足 を引きずり、剣を杖の代わりにして登られた故事に因んで名づけられ、また、松尾芭蕉が落馬して「歩行ならば杖衡坂を落馬かな」と詠んだあの「杖衝坂」からその名を取った銘菓。 最中ですが、中身はあんことお餅。 1個¥272。 小腹を満たす以上の効果が得られました(笑)。 いよいよ日永の追分が目前に迫りましたが、長くなりましたので、その2はここまで。 その3は日永の追分から、伊勢街道に入ります。 4月11日に行ってきた近鉄ハイキング「」の記事、だけ書いて「放置状態」でした(苦笑)。 サボっていたつもりはないものの、この間、江戸橋方面での非常勤が始まったり、義理ごとができたり、相談会の資料読みを行ったりしているうちに時間が過ぎました。 も同様で、在庫山積みですが、自らまいた種ですから、自分で刈り取らねばなりません。 ボチボチと記事を書いていくことにします。 このハイキングはお伊勢参りの3日目で、近鉄四日市駅をスタートし、東海道を歩いて、日永の追分で伊勢街道に入り近鉄鈴鹿市駅まで。 旅2日目に(3月24日)、近鉄富田駅から東海道を歩いて、近鉄四日市駅まで来た続き(2019年3月25日:)。 このときは、7. 近鉄四日市駅での受付が、9時半からということで、桑名駅を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。 四日市には9時9時13分に到着。 ¥300 本日のコースマップは、B4サイズ両面。 近鉄四日市駅(南改札口)を出て、東海道に入り、日永神社、日永一里塚跡、東海道 名残りの一本松を経て、お茶のやまなかで呈茶サービス。 その後、東海道日永郷土資料館に立ち寄り、伊勢街道との分岐である日永の追分へ。 伊勢街道を歩いて、河原田神社、忘帰處から鈴鹿川を渡って、神戸の見附跡と札の辻を見て、近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅がゴール。 コースマップ上は、12. 川を何本も越え、ちょっとした小旅行気分。 4月3日のハイキングと同様、Mさんと2人旅。 私があちこち立ち寄り、Mさんを連れ回して、大変迷惑をおかけしたのではないかと思います(微笑)。 しかし、旅や散歩の醍醐味は、立ち寄り、道草にあると思っています。 決められたコースからちょっとはズレたりして、目新しいもの、珍しいもの、面白いものを見つけるのは止められないのです。 こちらが実際に歩いた実測ルートマップ。 こうして改めて見ると、ずいぶん歩いたと思います。 ハイキングで歩いたのは、13㎞。 立ち寄り先でウロウロしていますので、実際にはもう少し歩いているはず。 もっとたくさんのところへ立ち寄って来たのですが、このマップには書き切れませんので、かなり省略してあります。 桑名駅までの往復で2. 1㎞(帰りに所用を済ませてきました)でしたので、合計15. さすがに15㎞を歩くと、よく歩いたと思いますし、いささか疲労感があります。 いつものように何回かに分けて旅の記録を書くことにします。 もう少し拡大した実測ルートマップ(その1)。 近鉄四日市駅を出て、国道1号線に向いていきます。 300mあまりのところを 右折し、旧東海道に入ります。 四日市でも繁華街のあたり。 曲がるところには、このような道標があります。 写真で奥に見える信号は、国道1号線諏訪栄町の交差点。 この右折した交差点の北は、。 旧東海道が、商店街になっているところ。 旧東海道に入って200mも行かないところ、を渡ってすぐのあたりにあるのが、。 真宗高田派のお寺ですが、作家・(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。 昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。 日本芸術院会員、文化勲章を受章しています。 崇顕寺は、(藤原)末胤、田原忠秀が文明元(1469)年、を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされました。 この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。 もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年にに帰依し高田派の寺となっています。 天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で消失していて、由緒の詳細は不明。 この真慧上人(しんねしょうにん)は、三重県のお寺を調べるとよく出て来ます。 浄土真宗の僧で、高田本山専修寺の第10代。 常陸の浄土宗迎雲寺等で顕密を学び、高田に帰った後、伊勢・三河・越前・加賀に布教。 高田専修寺を継ぎ、高田派教団の勢力を拡大した方です。 相当徳を積まれたお坊様のように思えます。 崇顕寺から300mほど、東海道の西側に仏法山東漸寺という、こちらも真宗高田派のお寺があります。 ネットで調べてもあま り情報は出て来ませんが、建仁元(1201)年創建の古刹です。 童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。 東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。 東については、(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。 東の童話は「仏典童話」と称されるそうですが、その他に、郷土四日市の風光に材を採った童話も書いています。 昭和10(1935)年に発表した人権意識の深い「白い鳩」であり、12(19374)年発表の初期四日市工毒(公害のこと)を告発した「ひばり」がそれです。 このあたりの東海道の様子。 東漸寺から先、近鉄名古屋線の高架を潜ります。 その手前に慈光寺(真宗興正派)というお寺が ありましたが、東に入らねばなりませんので、パス。 高架を潜ると、の線路が近くを走っています。 赤堀駅の手前にという、四日市でもっとも古い建物があるはずなのですが、見当たりません。 鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家で、代々、勘三郎の名を受け継ぎ現在で11代目まで続きました。 4代目・勘三郎高春が寛延3(1750)年、長崎に赴き漢方を伝授されたと云われています。 建物は6代目・勘三郎高光が 嘉永5(1852)年に建てたもので、これを観たいと思っていたのです。 調べてみたら、に「解体されて更地になってました」とありました(2017年6月15日づけの記事)。 歩きながら気をつけて見ていたものの、ありませんでした(鈴木という表札が出た、大きなお宅がありました。 これが鈴木薬局の跡地だったのかも知れません)。 残念です。 右の鈴木薬局の写真は、四日市・からお借りしました。 その後、落合川、鹿化川と越えて、スタートから2. 3㎞のところに大宮神明社があります。 詳しい由緒は不詳ですが、社伝によ れば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。 永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。 江戸時代には主・本多家の崇敬を受けていました。 「永宮さん」とも呼ばれるそうです。 主祭神は、。 相殿神は、(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大 力の神)、(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。 織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。 福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。 宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。 福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、(ホンダワケノミコト、応神天皇)、(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。 明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。 例祭は10月の体育の日。 獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。 また、6月30日夜には、那護志の大祓があり、いわゆる「」が盛大に行われます。 境内には、摂社として二柱大神があります。 ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。 (すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神 (土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社かと思います。 境内には、靖国社や、「皇大神宮遙拝所」がありました。 皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。 前にも書きましたが、四日市市内 の神社では時々見ます。 これらの他にも、稲荷社と思われる社や、不明の小さな社もありましたが、神社の説明板や、神社検索三重のサイトにも言及はなく、詳細は不明。 大宮神明社から300mほど、大聖院へ入る角に「」があります。 大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の前(南)の道が(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。 碑は元は東海道との角にありましたが、現在は、民家の庭にあります。 碑表には、「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」とあります。 「羽津み」は、江戸中期(1780~1800年頃)の大坂の古銭研究家・河村羽積(はづみ)のこと。 碑陰には、「猿丸太夫名歌古跡水澤へ 是より三里」と刻まれています。 水沢には、宮妻峡や、という紅葉の名所があります。 百人一首にある「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」という猿丸太夫の読んだといわれる歌の情景を、紅葉の名所・水沢楓谷(もみじだに)に名残を求めたものであろうかと、「日永ものがたり」にあるといいます。 水沢の楓谷は昔から紅葉の名所で、菰野藩主の土方公は必ずこの紅葉を愛でたというくらいです。 水沢道標からすぐ西に(むどうさん だいしょういん)。 真言宗醍醐派のお寺。 ご本尊は不 動明王。 寺伝によれば、天平10(738)年、行基の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。 平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊でした。 永禄8(1565)年松井親蔵法印が千草氏の庇護のもの、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ、氏寺として寺院を再興しました。 元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。 神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。 本尊の不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期のもの。 大正4(1915)年、重要文化財に指定されています。 他に、県指定有形文化財に指定された絹本著色釈迦三尊十六善神像もあります。 境内には、庚申堂もあります。 あちこち立ち寄って見ていますが、まだスタートして3㎞も進んでいません。 先行き、どうなるか、我ながらいささか心配ですが、長くなりましたので、その1はここまで。 スッキリしない天気でした。 朝7時半頃にはざっと強い雨。 午前中は曇りがち。 昼頃から晴れてきたものの、午後遅くからは北風。 冒頭の写真は、散歩から帰ったときの北の空。 今日は、いつも通り、8時20分から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町、田町と6. 九華公園のつつじ、ボチボチ開花が進んでいます。 まさに「ボチボチ」という感じです。 場所や、木によって咲き具合はかなり異 なります。 いつものように、よく咲いているところを撮っていますので、その前提でご覧ください。 5月1日から15日まで「」が開かれますが、特別なイベントは企画されていません。 ただ、5月2、3日は、鎮国守国神社の「」が開かれます。 氏子各町からいろいろな形の金魚の御神輿が出されますが、金魚の露店は最近はかなり少なくなっていて、残念。 九華公園を始め、散歩コースは今日もまた、鳥が少なく、張り合いがありません。 揖斐川には水鳥の姿はありません(カワウの み)。 三の丸公園、柿安コミュニティパークも、ムクドリとスズメ、ドバトだけ。 三の丸水門のヒバリは見当たらず。 九華公園では、ツグミが3羽。 朝日丸跡の東側で、かなり近いところに同時に出現。 しかし、向いている方向はバラバラでした。 このほか、コゲラ、シジュウカラ、カワラヒワくらい。 カモ、今日は、16羽。 散歩する人も少ないので、餌はもらえないと思います。 吉之丸堀の東側エリアで2つのグループに分かれてのんびり過ごしています。 貝塚公園でも鳥はおらず、内堀南公園で藤棚を見たら、ちょっと珍しい光景に気づきました。 2点あります。 一つは、藤の木の 幹の辺りにも花がたくさん咲いていたこと。 幹のところにこれだけ葉や、花が付いているのはほとんど見たことがありません。 もうひとつは、こちら。 藤棚から少し離れたところに、小さな藤の木が生えていて、葉っぱがでて、花が咲いていました。 去年まではまったく気づきませんでした。 このあとは、ツバメの巣の巡回。 博物館の玄関の巣にはいませんでしたが、京町の呉服屋さんの巣には、親ツバメがいました(左 の写真)。 ここのお宅には3つの巣がありますが、そのうちの1つ。 しばらく前から時々、巣に就いていますが、不在というときもあります。 右は、田町の商店の軒先にある巣。 ここも2つあるうちの1つに親がいます。 こちらは、三崎通のあるお宅の玄関にある巣。 去年は使われていなかったと思うのですが、今日見たら、修復されていました。 8ヶ所見て回ってきましたが、今のところこれら3ヶ所で営巣するのは確実と思われます。 ところで、昨日も書きましたが、5月1日から3日まで、のイベントが行われます。 今朝、散歩に出たら、住吉 入江の辺りや、揖斐川右岸の堤防、七里の渡し跡、蟠龍櫓付近に「」が並べられ、準備が始まっていました。 この燈籠、玄関先に1個あっても良いかなという気がしますが、お値段は¥27,000。 暗くなって、灯りが入っていないと絵になりません。 しかし、こうも野鳥がいないと、散歩に出ても張り合いがありませんねぇ。 プチ遠征をして、サギ山とか、M池公園とかに行った方が良さそうに思えます。 非常勤は、来週は休みですが、相談会の準備をしなくてはなりませんし……。 夕方近くになって晴れてきましたが、午前中はどんよりしていました。 気温は25度を超え、湿度も高いので、ちょっと蒸し暑いくらいです。 朝9時にいつものS理容院さんへ行って、散髪。 その後、九華公園へ散歩という次第。 散髪を終えて、田町交差点を左折して、九華公園に向かおうとしたら、散歩友達で、鳥見の大先輩のIさんの奥さんに遭遇。 Iさん、体調を崩して入院中ということでしばしお話を伺ってきました。 奥様も毎日面会にいらっしゃるということですが、徒歩で往復2㎞半以上ですから、それも大変です。 九華公園には10時半到着。 時間がいつもより遅いので顔なじみの散歩友達はいませんし、鳥もこの時間ではいません。 カモたちは、キンクロハジロだけが 14羽。 朝7時半頃には20羽ほどいたと管理人さんから伺いましたが、その後、どこかに行ったカモたちがいるのでしょう。 スズメ、ドバト、ハシボソガラス、ムクドリ、キジバトくらいしかいなかったのですが、それでもよくよく見て回ると、ツグミが1羽と、シメの声が。 本丸跡でです。 ツグミはすぐに逃げられ写真は撮れなかったものの、シメは何とか証拠写真が撮れました(苦笑)。 今日は、超望遠コンデジしか持って行きませんでしたので、とっさの対応が難しかったのです。 つつじなどは、かなり咲いてきましたが、去年よりはやや遅い感じ。 今日は、公園の中だけを歩き、外周遊歩道も回らず、他へも行かず。 公園施設の掃除をしてくださるMさん、管理人Nさんと話をして、柿安コミュニティパークを経て帰ってきました。 三の丸水門のところで、散歩友達のYさんに遭遇。 今朝の「」に載っていた、伊勢・長島藩主・の話になりました。 江戸末期の伊勢・主にして、絵をよくした方。 で、4月20日から6月16日まで「」が開かれるという記事が載っていたのです。 私は、桑名市博物館でも雪斎の絵を何度も見ていますが、藩校文礼館を創建し、藩学の振興につとめていますし、花鳥画や詩文にも長けたお殿様だったようです。 という次第で、散髪のあと歩いたものの、またもやおしゃべりばかりで距離は伸びず(苦笑)。 オマケに住吉水門に戻って来たら、雨まで降ってくる始末。 我ながら、「しょうがねぇなぁ」と思っています。 本年度2回目の江戸橋方面でのお仕事。 今日もまた、天候には恵まれませんでした(苦笑)。 講師控え室で同席した他の先生とも、「どうして水曜は雨が多いんでしょう?」という話になりました。 桑名駅までの間も、江戸橋駅の往復も、さほど強くは降らなかったのは幸い(笑)。 今日の受講者数もほぼ50名。 前回と多少は入れ替わりがありましたが、皆、熱心に聞いてくれています。 ゴールデンウィークというか、10連休を挟みますので、次は5月8日。 私の学生時代もそうでしたが、連休を挟むとテンションが下がって出てこなくなる学生がいました。 昔は、「」などといったのですが、どうなりますか。 ちなみに、昨年は、連休前の4月25日には58名の出席者が、5月9日には49名に減り、その後少しは回復したものの、連休明けから出てこなくなってしまった学生も少しあり、気になるところ。 生活リズムや体調を崩さないよう、また、リフレッシュにも気を配ることが必要かと思います。 今年の学生たちの中には、4年制大学へ編入して心理学を勉強したいとか、公認心理師や臨床心理士の資格を取りたいと書いてくる学生がいつもより多い印象があります。 短大からの挑戦ですと、難しいことも多いと思いますが、初心忘るべからずで、また、情報収集を行い、工夫をして目標達成してくれるよう願っています。 10連休になりますが、世間では喜んでいる人は少ないというニュースもありました。 旅行に行こうにも費用が嵩むでしょうし、あちこち出かけると混雑しているということもあります。 休めないという方も多いようですし、体調を崩しても病院が休みということもあります。 何がよいのか難しい時代です。 私自身は、いつも通りにプラス相談会を1回予定していますので、明日からはその準備に注力しなければと思っています。 余談を追記。 朝、往きの電車で若い女性から席を譲っていただきました。 人生、これで2度目の体験です(苦笑)。 高齢と覚しき方でも遠慮なさったり、中には「オレはそんなジジイじゃない」と怒り出したりする方があるように聞いています。 しかし、私は、最近は、いただいたご厚意はありがたく承ることにしました。 その方がお互い気持ちも良く、また、若い方たちが、自分が行った行動が受け容れられることで、それが強化となって、また他でも同様の親切をしてくれることにつながるのではないかと期待するというのが、その勝手な屁理屈。 いただいた好意は、また他のところで別の方にお返ししようと思っています。 今日は、いつも通りの散歩。 住吉神社から九華公園、貝塚公園、内堀公園の あとは、京町、寺町、田町と5. 右のつつじは、名所のものではなく、拙宅マンションにて撮影。 かなり咲いてきました。 冬鳥たちはほとんど見なくなりました。 今日の散歩では、ツグミ、シメ、シロハラはまったくいません。 皆、もう帰っていった ものと思われます。 七里の渡し跡を歩いているとき、アオサギが1羽、上空を通過。 三の丸水門の上流側には、ヒバリが1羽。 柿安コミュニティパークや、三の丸公園には、ヒヨドリ、ムクドリ、ドバト、スズメしかいません。 柿安コミュニティパークにある藤棚では藤が咲いてきましたが、昨年までと同様、東側の半分しか咲きません。 藤の木は2本ですが、1本しかつぼみを付けていません。 クマバチさんが、蜜を集めに来ています。 ヘンに刺激しなければ、攻撃されることはないのは知っているものの、あの羽音を聞くと、ちょっとビビります(笑)。 九華公園は、静かでした。 「静か」というのは、二重の意味で、散歩する人もさほど多くはありませんし、野鳥 の声も聞こえてこないということ。 花見の時の賑わいがウソのようです。 野鳥も、カワラヒワ、ドバト、ムクドリ、ヒヨドリ、スズメがいるものの、数が少なくて、鳴き声もあまり聞かれないです。 つつじの咲き具合は、場所によってかなり違います。 写真は、よく咲いているところを撮りますので、誤解なきように願います。 公園全体としては、咲き始めという印象です。 キンクロハジロご一行は、13羽が滞在中。 いつもは、堀の東側エリアにいたのですが、今日は、九華橋の南に集まっていまし た。 昨日は19羽だったようですが、もうゴールデンウィークも目の前ですから、例年通りということでしょう。 あまりにも鳥が少ないので、スズメとムクドリに持っていたパンを与えて、遊んでもらいました(微笑)。 スズメの方が反応が早く、すばしこく寄って来ます。 チョウも、アゲハ、モンシロチョウなどがよく飛ぶようになって来ています。 ツバメの巣も巡回してきました が、今日はどの巣にも親ツバメはいませんでした。 どうなっているのでしょう? もうそろそろ卵を産んでもよい頃かと思うのですが……。 住吉入江にいる、翼を痛めたヒドリガモのオス、今日は、南の端(寺町商店街に近いところ)にいました。 水面を見つめて、何やら物思いにふけっているように見えます。 さて明日は、江戸橋方面、今年度2回目ですが、天気がアヤシい(苦笑)。 去年からのジンクスを引きずっているような気がします。 暖かいを通り越して、暑くなりました(苦笑)。 今日の最高気温は、28. 毎年ゴールデンウィーク頃、急に暑 くなったりするようですが、体調が追いつきませんねぇ。 今日の散歩は、住吉神社から、いつもとは逆に、揖斐川の上流方面へ。 ブロ友のひらいさんが、大山田水門のところにサギが集まっていることがあると書いておられましたので()、確かめに行こうという次第。 揖斐川右岸を歩いて、長良川河口堰を右の写真のように見て、伊勢大橋を越え、大山田水門からいったん上之輪新田を回り、沢南橋あたりから大山田川を養老鉄道の播磨駅のところまで行って引き返します。 新宮西橋から南へ。 くわな特別支援学校、養老鉄道の高架橋を経て帰宅という6. 9㎞コース。 伊勢大橋までは、我が家から1. 5㎞ほど。 桜堤防を越えたあたりで河川敷におります。 例年、このあたりにはヒバリがいます。 今 日も合計6羽ほど(たぶん3ペア)。 揚げ雲雀も見られましたが、これをきれいに写真に撮るのは難しい。 他には、けっこう離れたところから、ケリも飛び立ったのですが、写真には撮れませんでした。 伊勢大橋。 久 しぶりに、また、ナイショで伊勢大橋の下をくぐって行くことにしました(笑)。 橋を潜ると、甚内ポンプ場の排 水樋管のところに出ます。 その先に水門があり、そこで、大山田川が揖斐川に注ぎます。 ひらいさんがサギが集まっているのをご覧になったのは、右の写真の木のあたり。 しかし、今日、ここにいたのは、ダイサギとアオサギが1羽ずつ(右の写真は、いずれも飛び立ったあとですから写っていません)。 右上の写真を撮る前には、ダイサギがいたのですが、すぐに逃げられました。 また、アオサギも、こちらが気づく前に飛び立ちました。 逃げ足が速いこと。 その他は、コガモが4羽と、カルガモが1羽、ヒヨドリが数羽いたのみ。 サギが巣作りをしている様子もありません。 アオサギはもう1羽いましたが、こちらも、近づこうとしただけでサッサと逃亡(苦笑)。 見て、写真を撮るだけなのですか ら、もう少しフレンドリーな対応をしてもらいたいものです。 長いつきあいなのですし(バードウォッチングを始めて7~8年になるはず)。 大山田川の北にある沢北川から、上之輪新田に出ます。 上之輪新田には、ケリでもいないかと思ったのですが、スズメ、ムク ドリの他、ツバメやイワツバメが飛んできていた他には、モズのオスが1羽。 もっと北の方へ行けば、ヒバリなどがいたかも知れません。 上之輪神社に立ち寄って、小休止。 沢南橋に出て、大山田川を遡ります。 コガモは、かなり少なくなったものの、養老鉄道の 播磨駅近くまでの間で合計10羽ほど。 今日は、この間、イワツバメを除いては、ハクセキレイ1羽、キジバト、アオジらしき姿1羽、ヒヨドリ、イソシギ1羽くらいしかいません。 ひょっとしたら、カワセミもと期待したものの、まったく見かけませんでした。 イワツバメはたくさん飛んでいますし、あちこちの巣からも顔を覗かせています。 巣にいるのは、子どもだろうと思います。 もっとハッキリと写真を撮りたいと思うものの、ここは橋の下。 道路から真上を見上げなくてはなりませんので、けっこう大変。 首が痛くなりますし、あまり見上げているとふらつきそうになるのです。 飛んでいるところも撮影にチャレンジしましたが、やはり難しい。 橋の下の川原にイワツバメが降りて来る様子もありましたが、あいにくとちょっと距離があり、クリアには撮れませんでしたし、何をしているのかもよく見えませんでした。 このあと、さらに川を遡って、養老鉄道の鉄橋まで行き、対岸に渡って戻って来たのですが、今日は鳥果はあがりませんでした。 帰り道、の前にある「くわとくガーデン」を見てきました。 ここは、校庭に木を植えた り、木の手入れをして学校の緑を増やす活動として行われていますが、いろいろの花木があり、季節の花を楽しめます。 さすがにソメイヨシノは、ほぼ葉桜になりましたが、八重桜があちこちでよく咲いています。 今日も、近鉄ハイキングはありま すが、さすがにパス(昨日歩いたのと、非常勤、相談会の準備などもありますから)。 今日はいつも通り散歩。 8時20分からほぼ3時間。 住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町と5. 左の写真は、三の丸公園のソメイヨシノと蟠龍櫓。 右は、九華公園の奥平屋敷跡にある八重桜。 九華公園には、八重桜は数えるほどしかありません。 九華公園では、外周遊歩道の日当たりのよいところで、つつじがかなり咲いてきています。 本丸跡や、二の丸跡などは、まだほ んのチラホラという感じ。 つつじまつりは、5月1日からですが、もう寒さも戻ってこないでしょうから、これから一気に咲いてくると思います。 本丸跡にある藤棚もご覧の通り。 手入れとか、施肥とかされていないように思いますが、それをすればもっと見事になるのでは ないかという気がします。 ちょっともったいない(他の公園でも、同様です。 桜などもほとんど植えっぱなし。 伐採というか、剪定というか、それはするんですがねぇ)。 何事に付けても「予算がない」のだそうで、街路樹なども、1本おきに切ってしまっているという話も聞きます。 もう少し智慧を働かせて欲しいところです。 今日は、どこへ行っても野鳥の姿をあまり見ませんでした。 揖斐川にはもう水鳥はいません。 三の丸水門のところで、ヒバリは見ましたが、ツグミはいなくなった感じ。 九華公園でも、キンクロハジロは20羽。 ツグミ、シロハラはおらず、シメの鳴き声を聞いた気がしましたが、確認はできません。 いたのはドバト、スズメ、ムクドリ、ハシボソガラス、キジバト、ヒヨドリにわずかなカワラヒワ。 去年は、巣材を運ぶシジュウカラや、巣に就いていると思われるエナガを見ましたが、今年はサッパリ。 貝塚公園も同様。 スズメ、ムクドリ、ヒヨドリとカワラヒワ。 ここも、ツグミ、シロハラは見られませんでした。 もう冬鳥た ちは帰ってしまったのでしょう。 こういう状況ですから、知り合いに会わないと、散歩が早く終わってしまいます(笑)。 散歩コースにあるツバメの巣も、一通り見てきました。 ツバメはよく飛び回っているものの、巣にいるのはまだ少ない状況で す。 左の写真は、博物館の玄関にある巣。 修復作業が進んでいるようですし、ここに行ったとき親ツバメが1羽、飛び出てきました。 ここは営巣してくれそうです。 右は、京町の呉服屋さんの巣。 親ツバメが巣に就いています。 最初に見たときはいませんでしたので、まだ卵はないのではないかと思います。 今日は、3日ぶりにいつものコースへ行きましたが、その分、知人に一通り会えました。 その数10名あまり。 ご夫婦もいらっしゃるので、9組。 私と同年齢から、最高は86歳の男性。 皆、お元気です。 あれこれ世間話に花が咲きます。 私の悪影響を受けて、野鳥に目が向くようになった方や、旅行に行って、城や名所旧跡があると寄り道するようになった方などがあり、笑えます。 決してそういうことを強要しているわけではありません(微笑)。 その知人のお一組から聞いたお話。 奥様は鳥だけでなく、花木にもご興味があり、よくご存じの方。 藤が丘デザイン公園に御衣黄があることをお話ししたら、見に行かれたのですが、その結果、「御衣黄は、2本だけであとの数本は、ウコンだと思う」ということでした。 鑑別点もしっかり教えてもらいました。 なおかつ、市役所に電話したら、まったく要領を得ない返答であった上(御衣黄があることさえ、しっかり把握していないようでした)、さらには「誰かが、落ちていた看板を勝手に付けて、それで間違っているのでしょう」、「満開でないと分からない」、「来年、業者に見に行かせる」などとふざけた返事だったそうです。 「ついでがあったら市役所にキツくいってやってよ」とお怒り。 九華公園にも市役所の担当部署の職員はほとんど来ませんから、私としては「さもありなん」と思えます。 現場の状況を把握しないで、ちゃんとした仕事はできません。 今日は、JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ行ってきました。 JR東海の「TOICAエ リア拡大記念」と銘打ったウォーキングです。 というのも、JR関西線では、3月まではICカードが使えたのは、四日市駅まででした。 それが亀山駅までの各駅でも使えるようになったのです。 スタートは、JR関西線・河曲(かわの)駅。 といってもあまり知られていないかも知れません。 関西線の四日市から下り方向には、南四日市、河原田、河曲、加佐登、井田川と続いて、亀山が東海エリアの終点。 河曲駅は、鈴鹿市木田町にあります。 もとは木田信号場として開設され、その後、昭和24(1949)年に鈴鹿駅として開業したものの、周辺の発展ができず、また、駅から市役所まで約20分も歩かなければならず、年々乗降客は減少し、当時、建設中であった国鉄伊勢線(現・伊勢鉄道)で鈴鹿市の中心部である神戸地区に新駅が設置されることをきっかけに新駅の名称を鈴鹿駅とし、こちらを河曲駅に改称しました(昭和48(1973)年)。 元々無人駅で、駅も写真のようにちょっと淋しい状況です。 本日のコースマップ。 河曲駅での受付は、8時半から11時。 佐佐木信綱記念館、石薬師寺(いしやくしじ)、加佐登(かさ ど)神社、鈴鹿フラワーパーク(鈴 鹿市植木まつり会場)、荒神山観音寺と回って、JR関西線・加佐登駅がゴール。 マップ上は、9. このブログをお読みくださっている方には、先刻ご承知と思いますが、加佐登というのは、最初の就職先&一人住まいがあったところです。 石薬師あたりは、その少し四日市寄りにある自由が丘というところには、当時、食事などに来たことがありますが、旧東海道沿いは初めて。 佐佐木信綱記念館も、石薬師寺も訪ねてみたかったところです。 今朝は、JR桑名駅を8時51分に出る亀山行き普通電車に乗車し、河曲駅着は9時20分。 ¥410。 右の画像が、実際に歩いたルート。 若干寄り道していますので、11. 5㎞を歩いてきました。 先日(4月11日)の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」も予告編で止まっていますし、非常勤も始まり、また相談会も予定していますので、先行き不透明ではありますが、取り敢えず、今日のところは、予告編(苦笑)。 9時25分に河曲駅をスタートしてすぐに関西線の線路を渡り、田園地帯を進みます。 田植があちこちで行われていました。 以前は、ゴールデンウィークくらいでしたし、われわれが子どもの頃は、6月頃だったように思います。 ずいぶん早くなったもの。 浪瀬川沿いを上流に向かって進み、三重県消防学校と県立石薬師高校の北側を回って、国道1号線を歩道橋で渡って、旧東海道に出ます。 ちなみに、浪瀬川沿いには、何カ所かに「この川にはまむしがたくさん生息しています」などという表示があってビビりました。 旧東海道に入ったところで、スタートからは2. 8㎞ほど。 時刻は、10時。 旧東海道は、桑名の七里の渡し跡から四日市の日永の追分までは歩きましたが、石薬師宿あたりは初めて(この先の庄野宿は、近鉄ハイキングで半分くらい歩いています(2018年12月6日:))。 石薬師宿(いしやくししゅく、いしやくしじゅく)は、東海道五十三次の44番目の宿場です。 元和2(1616)年に宿場となっています。 徳川家康が、東海道を制定したのが慶長6(1601)年ですから、15年ほど遅れています。 四日市と亀山の間が長すぎたので、高富村にあった集落を東海道の通る台地の中央部に移して、村落にして、石薬師と名づけたといいます。 石薬師の名前は、石薬師寺に由来します。 今日歩いた東海道は、ここから石薬師一里塚跡まで。 東海道に入って100mほどの右側(西側)に、小澤本陣跡があります。 表示は2ヶ所ありましたが、いずれも本陣の敷地だといいます。 大名の名前が書かれた「関札(せきふだ、ともいう)」や、江戸時代の宿帳が残されていて、赤穂城主・浅野内匠頭の名前もあるそうです。 この近くに松の大木があったので、「松本陣」ともいったという話があります。 小澤本陣跡の向かいには、園田家が務めた問屋場がありました(と書きつつも、見忘れました。 気づいたときには、かなり進んでいて、戻る元気が出ませんでした……苦笑)。 小澤本陣跡のすぐ先、やはり右側に本町集会所となっている「天野記念館」があります。 ここは、タイムレコーダーで名高いの創業者・(明治23(1890)~昭和51(1976)年)翁が、昭和39(1964)年に故郷である石薬師町本町のために建てたものです。 天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげています。 前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫によるもの。 スタートからほぼ3㎞、石薬師小学校の隣に「」があります。 この記念館は、佐佐木信綱資料館、信綱の生家、 石薬師文庫、土蔵からなっています。 歌人であり、国文学者として有名な(明治5(1872)~昭和38(1963)年、の長男)は、三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)に生まれています。 資料館には、第1回の文化勲章をはじめ、信綱の著作や遺品が展示されています(資料館は昭和61(1986)年に完成)。 生家は、昭和45(1970)年に移築されています。 こちらは、石薬師文庫。 佐佐木信綱が、昭和7(1932)年、還暦にあたり、旧石薬師村に寄贈したものです。 以前からあった 土蔵を文庫として、この建物は閲覧所として建てられました。 伊勢国学に関する多くの版本や写本を含む貴重な書籍が贈られています。 現在は、地域の図書館としてボランティアにより運営されています。 この石薬師文庫の前には、距離標(石薬師村の道路元標)が立っています。 碑表には「距 津市元標へ 九里四町十七間」とあります(35. 8㎞ほど)。 佐佐木信綱といえば、もちろん上述のように、歌人、国文学者として有名ですが、私には、唱歌「」の作詞者として のイメージが強くあります。 「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」が浮かんでくるのです。 「卯の花」は、。 記念館の敷地だけでなく、石薬師の町中には至る所に、この卯の花が植えられています。 記念館の玄関脇の日当たりのよいところでは、もう咲き始めていました。 佐佐木信綱資料館で、珍しく土産を買ってしまいました。 栞です。 右の3つは、伊勢型紙のものでこれらが1セット。 左は、卯 の花の押し花であろうと思いますが、そこに「卯の花の匂ふ垣根に」と手書きで添えられています。 これは、家内の母へ。 余談ですが、家内の母は私が読み終え、謹呈した時代小説を読んでいるのです。 さらに、資料館前に地元の「」という和菓子屋さんが出張販売。 「卯の花もち」、1個¥110でしたので、お買い上げ(微笑)。 途中、どこかでおやつにするつもり。 佐佐木信綱記念館を出て、石薬師小学校南の交差点を渡ったところには、浄福寺という真宗高田派のお寺があります。 山門の 前の石の築山の上に信綱の父・弘綱の記念碑が建っています。 ここは佐々木家の菩提寺。 開基は、室町時代の永正年間(1504~1520年)と伝わっています。 記念碑には、「わかの浦に 老いを屋しなふ 阿し堂徒盤(あしたずは) 雲の宇辺越(うえを)も よそに見類(みる)か難(な)」。 浄福寺の先にある交差点には、道標と、川はないのに橋の親柱が残っています。 親柱には、「南町橋」とあります。 道標に は、「上田加佐登」と刻まれています。 上田も、加佐登もこれから歩いて行く先の地名。 道標は、大正13(1924)年に(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が建てたもの。 田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。 明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。 さらに石薬師の町を進み、3. 6㎞ほどのところで国道1号線にかかる瑠璃光橋(あとから知ったのですが、この「瑠璃光」は、石薬師寺の旧名によります)を渡ります。 ここはまだ旧東海道 のルート。 1号線を越えるとすぐにがあります。 ご本尊は、弘法大師自らが、一夜にして爪で刻んだとされている薬師如来像。 秘仏になっていて毎年12月20日のおすす取りに合わせて、開扉されます。 真言宗東寺派のお寺。 寺伝によれば、神亀3(726)年、(奈良時代の山岳修験者。 加賀国白山を開創したと伝えられる)が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが開創とされています。 その後、弘仁3(812)年、空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、(在位809年 — 823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山 西福寺 瑠璃光院と称していたといいます。 ちなみに、安藤広重が描いた「東海道五十三次」の石薬師宿には、この石薬師寺がモチーフになっています。 この石薬師寺で11時前。 小腹も空いてきましたし、歩き始めから1時間半近くになりますので、先ほど、佐佐木信綱記念館の前でゲットしてきた「卯の花もち」をいただくことにしました。 包みを開けたら、こんな風。 イメージとしては、桑名や四日市で売っている「」を丸くしたもの。 食べてみても、まさにその通りでした。 三重県内の東海道・伊勢街道は、「」と言われるくらい。 あちこちでいろいろなタイプのお餅、あるいはそれに類した菓子が名物になっています。 一息ついて、次へ。 今回はあまり予習をしてこなかったのですが、石薬師宿については、「ホントに歩く東海道(風人社)」と「チャント歩ける 東海道五十三次 袋井宿~京三条大橋(山と渓谷社)」の該当箇所だけは見てきました。 それによると、石薬師寺のすぐ東に「蒲冠者範頼之社(かばのかんじゃのりよりのやしろ)」があると書かれていました。 範頼は、(みなもとののりより)で、の第6子、の弟。 蒲冠者と称しました。 頼朝の命令で、弟・とともに西国への遠征隊の総指揮官となりました。 学問武芸に秀で、願望成就の神として信仰されています。 ここは、御曹子社(おんぞうししゃ)ともいうようです。 鳥居の脇に「蒲桜」への案内があります。 案内にしたがって60mほど南へ行くと、「(かばざくら)」がありました。 三重県指定天然記念物。 寿永年間(1182~ 84年)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願し、戦運を占うため鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったのち、生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。 ヤマザクラの変種の一つで、赤茶の芽、花は一重の五弁、直径5cmで白~淡紅色。 まだ花が残っていました。 「蒲桜」を見てから指定されたルートに戻り、南へ。 スタートから4. 6㎞のところに、「」。 江戸・日本橋からは、百二里。 1里は約3. 927kmですから、400. 現在は、塚はありませんが、土手にエノキが植えられています。 蒲川の西岸に位置し、かつては東海道の両側に榎が植えられてのですが、もともとあったエノキは、伊勢湾台風で折れたそうです。 今あるエノキは、昭和52(1977)年に若木が植えられ、そのときに「史跡石薬師の一里塚跡」の碑が建てられています。 また、ここには、石薬師宿の標柱があります。 東海道はここから、左折して西へ。 JR関西線をくぐって、加佐登から庄野宿に向かいますが、ウォーキング・コースは直進し、国道1号を越えて(潜ります)、鈴鹿市上田町へ。 今日は、これで国道1号を3回横切りました。 石薬師一里塚跡から2. 2㎞ほど登って来ると、に出ます。 このあたりは、かつて働いていたときにも何度か来ていま す。 前にも書きましたが、当時所属していた野球部で(おまえが野球部?というツッコミは、今回はスルーします)、花見などあれこれ理由を付けて、宴会、BBQに来ていました。 ただ、当時も今も、この表参道から神社に行くのは、大変。 右の写真のように、こういう階段になった参道を5分も登る必要があります。 この5分というのは、鳥居近くの境内案内板にある数値。 写真はありませんが、階段下には、「必要な方はお使いください」と杖が置いてあります(笑)。 今はまだ大丈夫ですが、そのうち必需品になります。 主祭神は、。 相殿神は、天照大御神、豊受大神、火之迦具土神、気吹土主神、速玉之男命、天羽槌雄神、大国主命、伊邪那美神、伊邪那岐神、大雀命、建速須佐之男命、菅原道真、品田和気命、予母都事解之男神、息長帯比売命、大山津見。 相殿神はまだ調べていませんので、今日のところはリンクはありません。 日本武尊の能褒野(のぼの)陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀っています。 延喜式神名帳にある、伊勢国鈴鹿郡の倭文神社(しとりじんじゃ)を合祀したと伝えられます。 ここも、先日訪ねた伊奈富神社と同様に、紫ツツジの名所(2019年4月12日:)。 古来、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていました。 江戸時代後期の国学者・は「御笠殿社由来記」(1829年)で、腫物などの病に霊験あると記しているそうです。 境内にはやがあったと伝えられます。 明治6(1873)年に「笠殿」(かさどの)から現社名へ改め、明治41(1908)年に近隣の神社16社を合祀し、現在の姿となっています。 このため、相殿神がたくさんいらっしゃるというわけです。 加佐登神社に着いたのが11時45分頃でしたので、ここで昼食。 今日は、自宅から持参したおにぎり2つ。 おにぎり2つを食べ終え、12時15分に再スタート。 加佐登神社の北西にあるを見に行きます。 ここは日本武尊の墓 といわれ、その霊が白鳥となって飛び去ったという伝説が残されています。 7基から成る白鳥塚古墳群の主墳で、三重県下最大のです。 本居宣長や平田篤胤ら江戸時代後期の国学者の多くが、白鳥塚を古事記にあるヤマトタケルの能褒野(のぼの)陵墓として最有力視していました。 明治9(1876)年、教部省は白鳥塚をヤマトタケル陵墓と治定したのですが、明治12(1879)年に宮内省はそれを覆し、丁子塚(現亀山市)を治定しました。 以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓()とされています。 加佐登神社の北西にある。 ここは、季節 折々の花が色鮮やかに咲き、噴水や花の丘、桜の広場、野点広場などの施設があります。 また、大型複合遊具などもあり、お子さんを連れた家族で賑わっています。 植木まつりではありますが、庭もないのに植木を買って持って帰るわけにもいきませんので、通過(微笑)。 鈴鹿フラワーパークのほぼ隣にはがあります。

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吉川英治 大岡越前

市川いっかさつがい 犯人

この項目を編集される方へ: テレビ番組を出典として記述を行うことは避けてください。 もご覧ください。 世田谷一家殺害事件 正式名称 上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件 場所 ・3丁目23-7 標的 経営コンサルタント会社社員住居 日付 (12年) - 23時ごろ — 深夜から未明に掛けて 概要 一家4人が殺害された 懸賞金 最大2000万円 (「」も参照) 原因 不明(捜査中) 攻撃手段 による刺殺(計2本: 内1本は犯人のもの)および手による絞殺 死亡者 44歳男性 41歳女性 8歳女児 6歳男児 犯人 不明(捜査中) 動機 不明(捜査中) 対処 捜査中(対象) 遺族会 (宙の会) 管轄 () 世田谷一家殺害事件(せたがやいっかさつがいじけん)とは、(12年)12月30日深夜に上祖師谷で発生したの通称で、による事件の正式名称は「 上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」である。 本件では一家4人が自宅で何者かによって殺害されたが、未だにの特定やには至っておらず、となっている。 また、対象事件にも指定されている(詳細は「」を参照)。 事件の概要 [ ] 2000年(平成12年)23時ごろから翌のにかけて、東京都世田谷区3丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。 隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分すぎに発見し、事件が発覚した。 この事件は、最後の日に発覚した、に差しかかろうとする年の瀬の犯行だったこと、犯人の・など個人を特定可能なものや靴の跡()のほか数多くのを残している点、子どもまでもめった刺しにする残忍な犯行、さらに殺害後に長時間現場に留まった可能性が指摘され 、を触ったりを食べたりするなどのの異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。 また、年の瀬に発生した殺人事件ということもあり、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると警視庁による情報公開が行われ、が話題に取り上げることが多い事件である。 犯人の手がかり [ ] 後節の「」も併せて参照 犯人の特徴 [ ] 以下に犯人の特徴を列記する。 詳細については「」および「 」も参照のこと。 犯人は犯行時に手を負傷しており、そのときに現場に残されたからは ということが判明している(殺害された一家にA型の人間はいない)。 また、同じく血液から犯人のが であることも分かっている。 血液からはや、などの反応は出ていない。 また、も吸わない人物である。 宅のにあったには手がつけられていなかった(一方で、犯人は冷蔵庫のを飲んでいる)。 被害者の傷跡などから犯人は の可能性が高いことが分かっている。 犯人の指紋はである。 指紋は被害者宅から十数個 発見されている(過去のの指紋データと合致しない)。 服装などから犯人は 170センチ前後の可能性がある。 また、ヒップバッグのベルトの長さから胴回りは70〜75センチの やせ型と推定されている。 警視庁がまとめた犯人像に1965年から85年生まれ(事件当時15歳から35歳)というものがある。 これは、犯人が2階の浴室の窓から侵入する際、のフェンスから2階の窓まで上っているなどの身体的理由によるものである。 一方、2018年5月には現場に残されていた遺留品のうち、犯人が長期間使用していた形跡のあるヒップバッグの販売期間(1995年9月〜1999年1月)・内容物(時代によく使用されるなどの痕跡)・ベルトの長さ(長さ83センチで胴回りは70〜75センチと推定)やマフラーのサイズ(長さ約130センチで10代半ばの平均的な首回りにフィット)などから、警視庁が犯人像を「 事件当時15歳から20代 の細身の男性」に絞ったことが明らかとなった。 上記の遺留品については後述の「」および「」も参照。 また、警視庁より2018年5月に公開された情報の詳細については警視庁特捜本部サイト内の「」を参照のこと。 警視庁の2,000を越える犯罪者指紋データからこの犯人が特定できないことから、この犯人は犯罪歴がない可能性があるとみている。 犯行時の行動などから、性格は大胆で図太いながらトレーナーを畳むなど几帳面な部分も持ち合わせている。 DNA [ ] 現場に残されていた血液のからルーツをたどる的解析により、父系が系民族、母系には系()民族が含まれることが判明( )した。 「には少ない型」とする専門家の声もある( )。 なお、南欧系の祖先は的に見て遠くない祖先の可能性が高いが、DNA型から犯人とのは判別できないため、犯人の母親が南欧系の女性かは不明である( )。 では犯人が「アジア系含む日本国外の人」または「の日本人」である可能性も視野に入れてしている。 また、(ICPO)を通じ、日本国外のに捜査協力を求めている( )。 一方で、人種に関するが捜査に適用されるのには前例がなく、ずっとさかのぼった祖先が混血だった可能性も否定できないため、「犯人が純粋な日本人である可能性も否定せずに、国内でも幅広く捜査する」方針( )。 指紋 [ ] 親指の指紋(渦状紋)は、中心に豚の鼻のような2本の線がある。 犯人の行動 [ ] 被害者宅の構造 [ ] 玄関を入るとすぐにがある。 被害者宅1階部分のほとんどを占めるこの書斎は、父親が仕事部屋兼、子どもの学習部屋として使用していたものであり、約6万円が手つかずで残されていた大きな本棚や犯人がを閲覧した形跡のあるパソコンも置かれていた。 2階への階段脇には浴槽に散乱していたの一部がもともとあったとみられるもある。 さらに、トイレや洗面所、犯人の入出経路とされる浴室、長男が殺害されていた子ども部屋、バルコニーがある中2階、台所やダイニングルームとその奥の犯人によって物色されていた居間がある2階、そして母親と長女が寝ていた(ロフト、3階)の4層構造になっている。 本記事では中2階と2階を区別なく「2階」と表記している。 なお、屋根裏部屋へは折り畳み式のハシゴを降ろすことにより、中2階の踊り場(洗面所付近)から上ることが可能となる。 また、犯人の横歩きの足跡は「1階から中2階間」の階段についており、「中2階から2階間」の階段は4段のみである。 このほか、隣家の親族宅と外観では接続しているようにも見えるが、内部的にはしっかりとした壁で隔たれておりつながっていない。 一方、3種類の粉末が発見された車庫は事件発生時にが閉まっており、犯人が侵入した形跡はなかった。 車庫前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、事件直後のニュース映像では、一家所有の車がこのスペースに置かれているのが確認できる。 12月には、で作られた被害者宅のを警視庁が公開した。 この模型は事件の捜査にも活用される。 入出経路 [ ] 被害者宅の裏側は公園になっている(2010年10月撮影) 犯人の入出経路は、被害者宅の裏(公園側)にある2階浴室のとみられている。 あるいは、侵入口(普通に被害者宅を訪れた可能性もある)は玄関であった可能性も指摘されている。 浴室の窓は開いており、は外にはずれ落ちていた。 また、窓の真下の地面辺りから犯人の靴跡とよく似た大きめの足跡が発見されており、同じく窓の真下の公園フェンス付近の木の枝も折れていた( 読売新聞 2002年12月28日付)。 特別捜査本部が検証した結果、若者なら2階の浴室から無理なく侵入可能なことが明らかになっている。 発見時に玄関の扉のは閉まっていた( 毎日新聞 2001年1月29日付)。 また、玄関のドアのノブなどから犯人の痕跡(指紋や血痕など)も発見されなかった。 一方で、玄関の痕跡については、駆けつけたや員によって踏み荒らされてしまったという( など)もある。 また、犯人が着ていたと思われる遺留品のに擦った痕がないという報道や、浴室の窓などから痕、擦れた跡が発見されていないという報道( 週刊文春 2009年1月1日・8日新年特大号)もある。 さらに、被害者宅に残っていた血のついた足跡が階段の途中から上りの一方向のみだったことから、「玄関から靴を脱いで侵入し犯行に及び、床が血だらけになったため階段の途中で再び履いた」という警察幹部の見解もあった( 産経新聞 2002年12月19日付)。 殺害時 [ ] 被害者のの内容物などから、殺害の推定時刻は30日23時30分ごろとされている。 犯人は2階子ども部屋の二段ベッドで寝ていた長男を殺害後に、異変に気づき2階に上ってきた父親を襲い殺害、最後に屋根裏部屋(3階)で寝ていた母親と長女を襲って殺害したとみられている。 なお殺害時かは不明だが、犯人が子ども部屋の二段ベッド付近や階段の移動時に壁に背中をつけるなどして、などで習うような横歩きをしていたことが足跡からわかっている( )。 被害者の状況 父親の遺体は1階の階段下、母親と長女は屋根裏部屋下の2階踊り場付近で発見されている。 さらに、屋根裏部屋の布団から母親と長女の血液が発見された。 父親、母親、長女は全身負傷していた。 長男は手で首を絞められたことによる死とみられており、そのときにできた圧迫痕やからの以外にらしきものや犯人の血痕などは見つからなかった。 また、父親の頭部にの破片が残っていたという報道もある。 母親と長女は顔や首を中心に上から切りつけられていたが、父親は()やなども切りつけられていた。 女性被害者は何度も刺されていたという情報もあり、被害者の性別によって殺され方が異なっていた可能性もある。 死後も執拗に何度も刺していることが明らかになっている。 現場に長女の血のついたが落ちていたことから、犯人は母親が負傷した長女の手当てをしているのに気がつき再び襲った可能性がある( )。 長男は二段ベッドの下段にてうつ伏せの状態で、布団が被せられていた。 後述の「」も参照。 殺害に使用した凶器 犯人が持ってきた柳刃包丁の刃が最初(父親殺害)の犯行時に数ミリ欠けたが、その後には完全に折れたことから被害者宅にあったもとして使用されている。 血痕から母親と長女は先端の折れた柳刃包丁で傷を負わされた後に文化包丁で殺害されたことが分かっている( )。 殺害後 [ ] パソコンの通信記録から、犯人は侵入の翌朝まで10時間以上にわたり被害者宅に潜んでいた可能性があったが、現在ではのように1度目のネット接続(午前1時18分ごろ)以降、犯人が夜間のうちに逃走した可能性も出てきている。 犯人は被害者宅のを抜いていたため、電話が通じず不審に思った母親の実母が被害者宅を訪問、呼び鈴を鳴らしても反応がないため合鍵で中に入り事件が発覚した( 産経新聞 2002年12月19日付)。 なお、2000年分のだけなくなっていたことから犯人が持ち去った可能性があると報じられていたが、になってから、が聞き込み捜査のために持ち出し、そのまま返却していなかったことが公表されている。 犯行時に負傷した傷の手当て 犯人は犯行時に右手を負傷している。 現場では救急箱が物色されており、犯人の指紋が付着した絆創膏、血痕が付着したなどが2階のに散乱していた。 の1枚は傷口に当てたあとで剥がし、居間にあったノートの裏に貼りつけていた。 また、で止血を試みるなどした形跡も残されていた。 アイスやお茶などの飲食 4人を殺害したあとに、犯人が被害者宅の冷蔵庫からの(麦茶)や、アイスクリーム(少なくとも)4個を取り出して食べた形跡が残されていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 アイスの容器は2階の浴槽と居間のの上からそれぞれ1個ずつ発見され、1階のパソコン脇にあった2個は食後に重ねられていた(この2個は紙袋に入っていたという報道もあり)。 2階台所と流し台のの上にあったアイスの容器は食べかけで誰が食べたものか特定できなかった( )。 このほか、台所には犯人の唾液がついた(お茶を飲む際に使用)も置かれていた。 また、犯人が被害者宅の物色中にを噛んでいたことも分かっている。 一方で、冷蔵庫にあったビールや冷蔵庫横の10本は手つかずの状態で残されていた。 このため、犯人は飲酒をしない(ビールを飲まない)人物である可能性がある(による逃走への影響を考慮し、意図的に飲まなかった可能性もある)。 犯人はアイスのカップを握りつぶして食べていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 また、犯人が直接かぶりついたためアイスに歯型が残っていたという報道もある。 [ ] 被害者宅の物色と浴槽での作業 2階の居間では、にカード類(など)、その近辺にはやの、などの分かる書類などが仕分けされていた( )。 また、戸棚や机などのほとんどの引き出しが下から順番に開けられ物色された形跡があり、これは空き巣特有の手口でもある。 2階の浴室では、浴槽の中に父親の仕事関係の書類や、母親の塾の書類、前述の止血をしたとみられる生理用品、タオル、アイスのカップなどが散乱していた。 このことから犯人が家の中を物色して不必要な物を浴槽に捨てたことが考えられる(浴室の中で仕分けしていた可能性もある)。 さらに犯人は、1階の納戸から浴槽に散乱していた書類が入っていたとみられる引き出し1段を2階のトイレ前まで運んでいた( )。 また、浴槽に散乱していた書類や広告などはや手で引きちぎられていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 トイレの使用 犯人が被害者宅のを使用し、トイレの中で被害者宅にあったバッグを物色した形跡があった。 「」によると、の中からとが検出されたという。 ( )によると、トイレに残されていた大便の一部からのが検出された。 これは、被害者一家の胃の内容物やとは異なっている。 リビングで仮眠 犯人が2階居間のソファでした形跡が残されている( )。 パソコンの操作 [ ] 犯人が1階の書斎にある被害者のを操作した可能性がある。 通信記録を解析した結果、犯行時刻直前とみられる30日22時20分から50分ごろまで触れた形跡(22時38分から45分ごろのパスワードつきの送受信記録や同50分ごろのパソコンの電源を切った記録など)があり、これは被害者がまだ生存しておりインターネットを閲覧していたものと考えられる。 しかし、犯行時刻以降でも2度(31日午前1時18分ごろと午前10時5分ごろ)にわたりインターネットに接続されていたことが判明した。 2度とも接続時間は5分程度と短かった。 一方で、から犯人の指紋が検出されたが、からは検出されていない。 パソコンのは発見時には抜け落ちていた。 犯人がパソコンを操作していたとすると、犯行時刻の23時30分ごろから、母親の実母が一家4人のを発見する数十分前にあたる午前10時すぎまで、犯人は半日近くもの間、被害者宅に潜んでいたことになるとされ、これまで犯人の逃走時刻を推定する有力な証拠となっていた。 しかし再現実験を行った結果、マウスが落下するなどの衝撃でインターネットに自動接続する可能性があることや、2度目のネット接続(午前10時5分ごろ)では被害者の会社のホームページが表示された以外の履歴がないことから、1度目のネット接続(午前1時18分ごろ)以降、犯人が夜間のうちに逃走した可能性が高まったと2014年12月になって報道されている。 接続先は被害者の会社のサイトから、大学の研究室のや(現・)のサイトなど専門色の強いサイトまで含まれていた。 また、犯人は(被害者があらかじめインターネットブラウザの"お気に入り"に登録していた)の舞台チケットを予約しようとして失敗した可能性がある。 1度目の接続(午前1時18分ごろからパソコンを5分18秒起動)では空のフォルダを作成して劇団四季のサイトにアクセスしており、2度目の接続(午前10時5分ごろからパソコンを4分16秒起動)では被害者の会社のサイトなどにアクセスし最後に強制終了していた( )。 当初はこれらの通信記録が犯人によるものではなく、インターネットのサイト情報を自動的に拾ってくる「」によるものという見方もあったが、同端末に組み込まれたソフトでは機能上アクセスできるのは各サイトのトップページのみであり、実際にはサイト内のコンテンツも閲覧された履歴が認められ、再現実験の結果プラグも人為的に引き抜かれた可能性が大きいとされた( 読売新聞 2002年12月28日付)。 逃走後の足取り [ ] 被害者宅のすぐ脇は、の側道が続く(2010年10月撮影) 犯人が被害者宅から逃走したのは31日午前10時すぎ(パソコンの通信記録による)から、事件が発覚し警察にがあった午前10時56分ごろの間とみられていた。 しかしその後の再検証の結果、犯人が確実にパソコンを操作したとみられる午前1時18分ごろより後の夜間に逃走した疑いもあるとして捜査が行われている。 また、31日未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ている。 逃走後の移動手段、経路については現在のところ不明である。 近辺の交通状況 被害者宅から比較的近い鉄道のとして、、、、がある。 最寄のは「グランド前」()。 行き先は「成城学園前駅西口」「千歳烏山駅南口」「」「一丁目」などがある。 被害者宅の脇にはが流れており、川に沿って側道も続いている。 側道を北上するとすぐににぶつかるが、道路を渡ってさらに側道を進んでいくと仙川駅付近に到達する。 また、側道を南下するとにぶつかるが、公園内を通ってさらに側道を進んでいくとの学校関連施設などの横を通って成城学園前駅付近に到達する。 東武日光駅の目撃情報 事件発覚から6時間以上経過して、(発)17時26分着のに乗っていた右手に骨が見えるほどの深い怪我を負った30歳ぐらいの男が、駅の事務室で治療を受けている。 身長は約175センチ、黒いダウンジャケットを着ていて下はジーンズだった。 また、怪我の原因、男の氏名などは不明である。 当初は犯人が夜のうちに逃走したと思われていたことから、に捜査員を派遣したのが2001年10月とだいぶ出遅れてしまうこととなった( 産経新聞 2002年12月18日付・同月27日付)。 の記事( )によると、この男の行方や正体は現在も分からないままである。 上記の被害者宅近辺の駅から東武日光駅へは、やを経由してからの快速電車に乗車する、あるいは新宿駅を経由してからに乗りやなどで快速電車に乗り換えて向かうことが可能(2000年当時)である。 その他 犯人の私物と思われる現場の遺留品が購入できた場所として、京王線沿線や周辺、小田急線周辺などが挙げられており、これらの地域が事件当時の犯人のだった可能性がある。 現場の遺留品・犯人の所有物 [ ] 現場には犯人のものと思われる遺留品が多数残されていた。 以下に現在判明している遺留品の情報を記す。 なお、犯人の服装や遺留品についての詳細は「」および「 」も参照のこと。 概要 これらの遺留品が置かれていたのは被害者宅の2階部分である。 現場に残されていた衣類は綺麗に畳まれていた。 被害者宅の最寄り駅も通っている京王線沿線やのJR荻窪駅前など現場周辺でもトレーナーや柳刃包丁、ヒップバッグ、に付着していたが購入できた( 読売新聞 2001年2月9日付)。 柳刃包丁やヒップバッグ、、ハンカチ、手袋など以外の物が小田急線本厚木駅付近の店や金物店でも扱われていたことが分かり、トレーナーも内の店舗で3着が販売されていたことが判明した。 また、同線の周辺ではトレーナーとマフラー以外の物が購入可能であったことが確認された。 被害者宅から約1. 8キロである小田急線成城学園前駅から本厚木駅までは直通電車で約35分ほどである( )。 スーパーマーケットなどで購入できる品が多く、このことも捜査が難航する要因のひとつとなっている。 トレーナー(ラグランシャツ) [ ] 返り血が大量に付着していたが、2階の居間から綺麗に畳まれている状態で発見された。 一方で、初期には「裏返しに丸められて放置されていた」という報道( 産経新聞 2001年1月5日付)もある。 綿製で、サイズはL(身長175センチから185センチ用)。 2000年8月製造、9月から11月まで販売(販売状況については後述)。 は、胴の部分がグレーで両腕および丸首の部分が紫色。 同年で放送されたドラマ『』で主演のが着ていたタイプとされ、当時、若者の間で流行していたと呼ばれるものである。 何度も洗濯した形跡があり、色あせてクリーム色になっていた。 蛍光剤などの付着 赤色系の(粉末蛍光染料、詳細は)が胸付近に微量付着していた。 ただし、ヒップバッグや被害者宅の車庫からは3種類の染料が検出されたが、トレーナーは2種類のみである。 またトレーナーの染料には溶けた形跡がなく、付着してからは洗濯が行われていないものとみられることから、染料は事件直前に付着した可能性がある。 蛍光剤のほか、染料の色むらをなくしたり、演劇の舞台装置作りなどの用途でを加工したりする際に使われるオイルという化合物の成分が検出された( )。 ヒップバッグの染料については2018年5月に新たな見解が示されている(詳細は後述の「」を参照)。 現場近郊における販売状況と情報提供の呼びかけ このトレーナーと同タイプで同サイズのものは全国で130着、都内では4店舗で計10着しか売られていなかったことも判明した。 都内の10着のうち1着の所在が判明したが、特別捜査本部は購入者が判明していない残り9着のトレーナーの行方について情報提供を呼びかけている。 都内で売っていた4店舗があるのは、京王線、、JR荻窪駅、である。 また、同タイプのトレーナーは都内近県では神奈川県のほかに、、、などでも販売されていた。 神奈川県厚木市内の店舗では3着が販売されていた。 同タイプのトレーナー(LサイズおよびMサイズ含む)が販売されていたのは14で41店舗となっており、全130着の販売店舗が2011年12月までに判明している。 このうち52着が、22着がでの販売となっている。 また、130着のうち同時期までに購入者が判明しているのは12着に留まる(詳細は後述の「」を参照)。 ジャンパー(ダウンジャケット) [ ] 製「エアテックジャンパー」で、黒色、Lサイズのもの。 事件直前の2000年10月販売後、すぐに完売した。 販売数は8万2,000着(都内1万194着)。 通販、ネット販売もあり。 袖口からは犯人の血液型と同じA型のが検出された( 産経新聞 2001年4月2日付)。 ポケットの中の砂・遺留物 [ ] ポケットからは()の海岸の砂のほか、ヒメ()またはの、ケヤキと(以外)の枯葉、飼育用のを食べていたとみられるより小さいのも検出された( )。 砂は、海岸、のいずれかのものと推定される。 葉片は当初ヒメザクロと思われていたが、の結果、現在はケヤキとヤナギ(シダレヤナギ以外)となっている。 「バッコヤナギ」など数種類にまで限定して絞られたヤナギは、に多い「シダレヤナギ」とは違いおもに水辺に生息している特徴がある。 なお、被害者一家が事件の2年前に三浦半島の海岸のホテルで宿泊していたという情報もある。 スニーカー(テニスシューズ) [ ] 遺留品ではないが、現場に残されていた足跡から判明。 ブランド「Slazenger」()で、のが1998年10月から2000年11月にかけて4,530足していた。 白地に灰色のラインのものと紺色のラインのものがあり、ローカット、ハイカットなども含めると全部で5タイプある。 ( 2007年1月17日付)によると、靴の出所はである可能性があるという。 捜査本部は2018年8月、このスニーカーの3D画像を捜査本部のサイトで公開している(同サイト内の「」を参照)。 犯人の靴のサイズと日本国内での流通 犯人が履いていた靴のサイズは、現場に残されていた足跡から「28センチ(280)」(韓国サイズ)、あるいは靴枠が共通の「27. 5センチ」(日本サイズ)である。 また、靴の外枠が韓国サイズの「28センチ」と同じである「27. 5センチ」のものは国内での販売も確認されたという一部報道もあったが、捜査本部が2018年8月に公開した情報によると、韓国で「KOR280」と表記されている 日本サイズ27. 5センチについても日本国内の正規ルートでの販売は確認されていないという。 捜査本部では犯人が韓国で購入したか並行や個人輸入などで入手した可能性にまで視野を広げ、情報提供を呼びかけている。 詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと。 帽子 [ ] 「」と呼ばれるもので、帽子本体が濡れても頭が濡れないため、雨具としても使われることがある。 また、「」とも呼ばれる。 全国のジーンズショップで販売され、1998年7月から2000年11月までの間で3,465個販売。 シールのタグから1999年9月以降に販売されたもの。 都内で遺留品のトレーナーが販売されていた4店舗でも販売。 マフラー [ ] 緑色地で、赤と橙色、濃い緑の格子模様が入っている。 アクリル製。 小さいタイプのマフラーで、長さ約130センチ(縦30センチ)。 製造元や販売時期・エリアなどは不明(の景品やでも売られていた可能性のあるもの)。 や繊維のほつれ具合などから、犯人が長期間使用していた可能性がある。 マフラーのサイズと犯人像(2018年5月情報公開) 長さ約130センチのマフラーは身長が同程度の子どもがよく使用し10代半ばの平均的な首回りにもフィットする(成人した大人が使用する場合には小さい)ことから、犯人が少年期から青年期にかけて使用していた可能性も考えられ、後述のと合わせて学生が使用していた可能性を示唆するものとなっている。 黒い防寒手袋 [ ] 「ボアつきグローブ」として販売。 黒革で26センチ、中はボアつきで外側は豚革を使用。 製造数は1998年から2000年にかけて計1万755組。 犯行時に使用された形跡がなかった。 柳刃包丁 [ ] 刃渡り21センチ、全長約34センチ。 一般的に刺身包丁に使われる。 犯人が残していった柳刃包丁「関孫六 銀寿」は、 のメーカーが2000年6月に1,500本製造していたものだった。 型から作られた大量生産品で、全国のやなどで販売されていた。 現場付近では、世田谷区・杉並区内で事件前月の11月中に13本販売、被害者宅から数キロ圏内にある近くのスーパーで事件前日の29日に2本販売、近くのスーパーでも事件前日と当日の30日に1本ずつ販売されていた。 また、事件前日にのスーパーでも販売されており、このとき購入した「身長170センチ前後、年齢30代、黒っぽいジャンパーの男」の似顔絵イラストが2004年に警視庁より公開されている(詳細は後述の「」を参照)。 なお、柳刃包丁は最初の凶器として使用されたが犯行時に刃が欠けたため、被害者宅にあった文化包丁も2つ目の凶器として使用されている(「」も参照)。 黒いハンカチ [ ] 2階の踊り場付近と台所で発見された。 黒で無地のハンカチ2枚は45センチ四方でで販売されていたもの。 製造数は1995年からの約6年間で計6万6,500枚(1998年以降は5万9,000枚)。 ハンカチにはアイロンや洗濯の形跡も残されていた。 ハンカチの特殊な用途 うち1枚については中心部に約3センチの切れ目を開け、ハンカチの一部を押し込んで袋状にするという特殊な方法で包丁の柄を包んでいた形跡(詳細は「」を参照)があり、犯行時に包丁を固定する際の滑り止めや返り血を避ける目的で使用したとみられている。 もう1枚は三角形に折られ両端に絞り込みがあったことなどからマスクやバンダナとして使用したとみられる( )。 なお、バンダナは長さ63センチで顔に巻いており、比較的顔が小さい人物とされる。 そのほか、2枚のハンカチには二十数箇所に穴が開いていたことから、柳刃包丁を包んでいたことなども考えられていた。 結び目と犯人の血液が付着していたことなどから、止血に使用した可能性も指摘されていた。 また、「黒いハンカチ」が残されていたことについては、犯人にとって的・的な意味合いがあるものではという見方もあった。 包丁の柄を包んでいたとみられるハンカチについて、2018年にはの水産加工場で魚をさばく際に、包丁の滑り止めとして似た方法でハンカチを巻いていたとの情報提供があったことが警視庁特捜本部のサイトで公開されているほか、2019年には北部の一部地域における儀式・狩りの際や軍人、などが刃物を包む方法に似ていることが警視庁の情報公開により明らかとなった(詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 香水 [ ] 全国の量販店などで販売。 1982年ごろから日本国内でも販売。 事件当時、JR荻窪駅の雑貨店でも購入することができた。 ハンカチやヒップバッグに付着していた香水はGuy Laroche()の「DRAKKAR NOIR」()とみられている( 読売新聞 2003年12月23日付)。 これはスケートボーダー(をする人)の間ではも多い、1980年代に活躍したアメリカのプロスケートボーダーが愛用していたものだった( )。 また、香水の種類については「DRAKKAR NOIR」ではなく、20年から30年ほど前に流通していた「DRAKKAR」の可能性もある。 ヒップバッグ [ ] 深緑色でふたがついており、ベルトの長さは83センチに調節(胴回りは70〜75センチのやせ型と推定)。 大阪の業者が2,850個製造し、1995年9月から1999年1月にかけて35都道府県で販売された(関東地区のディスカウントストアなどでも販売)。 使い古されており、犯人が長期間使用していた可能性がある。 バッグの外側と内側には2枚のハンカチと同じく、刃物による二十数か所の傷があった。 また、バッグの表面からは日本ではほとんど流通していない、によく溶ける特種なとみられる成分も検出された。 このことから、犯人または周囲に「日本国外の渡航歴がある人物」の存在が論じられている( )。 さらに、洗剤が検出された部分と同じ場所やバッグの内側から物質(染料)も検出されている(詳細は後述の「」を参照)。 しかし、検出された物質についてはその後の検証の結果、捜査本部では「などを入れていた跡」という見解に至っており、学生時代によく使用されるでもあることから、前述の販売時期(1995年〜1999年ごろ)に犯人が学生であった可能性も視野に入れて捜査している (2018年5月情報公開、詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 バッグの中の砂 [ ] バッグの中から検出された砂は石英などを含んでおり、「西部の付近にあるの」と思われていたが、の砂の可能性が高いことが分かった( )。 このカリフォルニア州のものと思われる砂は、約3万5,000に及ぶ南西部にある付近のものであることも判明した。 同基地東部の砂は特徴的なものであり、バッグ内の砂と酷似しているという( )。 また、ジャンパーのポケットから検出された三浦半島の砂は、バッグの中からも検出されている。 カリフォルニアはスケートボード発祥の地で、三浦半島の「うみかぜ公園」にはスケートボーダーが集まる場所があり、大会も頻繁に行われている。 このことから、いずれもスケートボードと縁の深い場所の砂であることが明らかになった( )。 多量の遺留物 [ ] バッグの中にはそのほかにも、機のロールに装着するインク汚れ防止用フィルムやの材などに使われる微小なガラス球(ビーズ)、金属、、、約1億4000万年前のものと思われる(に含まれる)などの細かい粒が大量に見つかっており、その中には日本に流通していない成分や一般の人には入手しにくいものまで含まれていた( 産経新聞 2002年12月19日付)。 遺留物の詳細とスケートボーダーへの結びつき ガラス球は、、などで形成され、白い状、直径約50のものが5、6粒入っていた。 このガラス球はアメリカののガラス加工メーカーが製造し、国内ではのメーカーが製造する印刷機の特殊フィルムに使用されていた( 産経新聞 2001年12月27日付・朝日新聞 同月28日付)。 なお、これらは成分分析により明らかになったもので、「発見当初は原料のと思われていた」と解説している報道( 朝日新聞 同記事)もある。 その一方で、後年でも「チタン酸バリウム(の粉)が含まれていた」という報道( )が存在する。 捜査の結果、これらの数種類の物質はスケートボードの滑り止めに使われるグリップテープを削ったものである可能性があることが分かった。 この作業は通常はスケートボード購入時に店員が行うが、慣れているベテランだと自分でグリップテープをボードの形にカットし、ドライバーなどで削るようである。 モナザイトについても、の花崗岩にも含まれていることが分かり、砂と同様にカリフォルニア州に由来する可能性があるという。 これらのことからスケートボーダーが何らかの形で事件に関わっている可能性も浮かぶ。 捜査本部では、スケートボードを扱う業者やバッグがスケートボーダーから別の人物に渡った可能性にまで視野を広げ、現在捜査している。 カリフォルニア州への渡航歴についても重点的に捜査している( )。 赤色系の蛍光剤 [ ] トレーナーやヒップバッグの内側に赤色系の蛍光剤(染料)が付着していた。 この染料は発見時にシャッターが閉まっており、事件現場に残された犯人の足跡などの形跡が発見されていない被害者宅1階車庫付近からも検出されている(注:犯人が触れた形跡のない被害者宅の棚の中から染料が検出されているという一部報道もあるが、車庫内の棚と別物かは不明)。 車庫の染料は暗闇の中でを当てることによって光り、発見された。 事件前に犯人や犯人と関係ある人物が現場を訪れた可能性、被害者と犯人に交流があった可能性も視野に入れて捜査している。 被害者(父親)は、大学時代には劇団サークルに参加しており、事件当時は関係の会社に勤務していた。 大道具や先の企業へのなどで蛍光剤を使用していた可能性があるとみられていたが、のちの捜査で被害者自身は仕事などで使用した形跡がないことも判明した。 蛍光剤の詳細(2009年12月情報公開) 蛍光剤の原料は粉末で日本では製造されておらず、国内では化学薬品会社2社が中国やから輸入後、複数のメーカーが印刷用や道路標識用、看板の蛍光塗料などに加工して使用されている。 蛍光剤は3種類の粉末蛍光染料で、「」「バソニール」という商品名で流通、粉末状では赤茶色(緑色という報道もあり)で水に溶かすと赤やピンク系になり、で蛍光発色する。 おもに紙や布、木綿などの繊維の染色のほかに、プラスチック製品、漫画本、包装、広告、顔料やインクの製造、蛍光ペン、油絵の具材、レーザーの研究、工事現場などでも使用される。 3種類共に使用するのは一般的でないため、染料・塗料を扱う専門業者や工場、製紙メーカー、研究施設、舞台関連の制作業者、デザイナーなどの可能性が高い。 なお、染料は犯人の遺留品であるトレーナーから2種類、同じく遺留品であるヒップバッグの内側や犯人が犯行時に侵入した形跡のない車庫の奥の横倒しになった棚の引き出し(物置スペースと思われる、引き出しは縦の状態)の底から3種類発見されている。 また、車庫の引き出しの染料は底に付着している程度で、事件以前に被害者と犯人が車庫の暗闇の中で蛍光染料を確認しあった際の痕跡の可能性がある。 詳細については後述の「」も参照のこと。 その後の鑑定結果(2018年5月情報公開) ヒップバッグに付着していた塗料について、捜査本部では「蛍光ペンなどを入れていた跡であった」と2018年5月までに断定。 前述の通り、蛍光ペンは学生時代によく使用される文房具でもあることから、ヒップバッグの販売時期(1995年〜1999年ごろ)に犯人が学生であった可能性も視野に入れて捜査している。 詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと。 毛髪 [ ] バッグの中から、現場に残された犯人のもの(血痕)とDNA型も一致している長さ数センチの黒色のが発見された( )。 また、毛髪は長さ約2. 5センチとなどで刈られた長さ約1. 5ミリの2本である (2018年8月情報公開、詳細については後述の「」および警視庁特捜本部サイト内の「」も参照のこと)。 現場からの消失物 [ ] 犯人が持ち去ったものとみられていた2000年正月の年賀状は、捜査員によって聞き込み捜査のため持ち出されていたことが判明している( )。 デサント製のトレーナー [ ] 被害者宅にあった父親のトレーナーがなくなっており、犯人によって持ち出された可能性がある。 魚柄で前面に「DIVE」という文字が入っており、背面にはAからZの26文字がプリントされている。 1991年から1996年ごろまで販売されていた。 現金約20万円 [ ] 被害者が経営していた学習塾()の授業料である現金約20万円(約15万円という報道もあり)がなくなっており、現金が抜き取られたとみられるもあったが( )、銀行の預金通帳やキャッシュカード、類などは持ち出されていなかった。 ただし、上記の通りカード類や書類などを仕分けし物色した形跡は残されていた。 このほか、1階書斎の本棚に置かれていた現金約6万円が入ったには手がつけられていなかった( )。 その後、京王線千歳烏山駅付近に寄り帰宅したとみられている。 なお、車庫の前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、事件発生直後のなどから一家所有の車は車庫の中ではなく、このスペース部分に置かれていた可能性がある。 ただし、日常的に車を車庫に入れていなかったかは不明である。 同19時ごろ、母親が隣に住む実母と被害者宅の電話で会話している。 また、長女が母親の実母の家を訪れている。 同21時38分ごろ、長女のパソコンでを視聴した形跡が残っている。 事件発生前にあったインターフォンの音と怒鳴り声 [ ] 隣家の住人が事件当日の20時30分ごろ、被害者宅のの音が鳴るのを聞いている。 ただし、者の同居家族が音について否定しているうえ、この件に関する捜査は進んでおらず名乗り出た人物もいない。 また事件当日の30日深夜、通行人が被害者宅で男女が口論する声を聞いていたという報道( 2002年7月2日付)もある。 犯行時刻前後の「ドスン」という大きな物音 [ ] 隣家の親類は事件発生時刻前後の23時30分ごろに被害者宅から「ドスン」という大きな物音がするのを聞いていた。 また「ドスン(ドスン)」という大きな物音は週刊朝日( )によると、犯人が2階踊り場にあった屋根裏部屋へのハシゴを上げた音とされている。 これは実際に実験を行うなど検証によるものである。 「ドスン」という大きな音については犯人と対峙した被害者が階段から落ちた音であるとして、これを犯行時刻とする見解もあった。 被害者宅の隣に住んでいた母親の実姉(ペンネーム)は、家族が聞いたこの「ドスン」という音を「カタン(カタン)」であったと記している( 2002年10号)。 また、この音を「をひっくり返すような音」とも形容している。 実姉は翌午前1時すぎに就寝したが、その他には特に変わった物音は聞こえなかったとも記している。 事件発覚時の状況 [ ] 父親は1階の階段下で外出着姿(片足が裸足)、母親や長女は2階階段踊り場付近、長男は2階の子ども部屋でそれぞれなどの寝巻姿で発見されたとされる。 事件の第一発見者である母親の実母は発見時に母親や長女らの遺体に触れていたため、警察の現場検証ではなく実母の証言によるものとなるが、父親の遺体の上には引き出しが乗せられていたといい、さらに母親の遺体は全体が黒っぽい山のように見えたとも証言していることから顔を含む全体に洋服が被せられていた可能性があるという。 ただし、前述のように警察が到着した時点では一部動かされてしまっていたため、遺体の顔まで引き出しや洋服により覆われていたというのは確実な情報ではない。 このほか、長男は頭の方から布団が被せられており、長女は顔が下向きになっていた。 被害者の顔を隠すのは、犯人が顔見知りの場合に多いとされる( )。 このほか、現場は「血の海」でなかったと前述の母親の実姉が記している( 法学セミナー 2002年10号)。 さらに事件発覚時、1階の電気はついていたと一部で報じられている。 週刊文春( 2001年1月25日号)によると、新聞配達員が31日早朝に新聞の朝刊を配達したときには被害者宅の玄関の電気は消えていたが、殺害された母親の実母が現場を訪れたときには電気がついていたという。 なお読売新聞( )によると、未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ており、犯人がこの時間帯には現場から逃走していた可能性の一部として報道されている。 事件後に置かれた地蔵 [ ] 事件からちょうど100日目の、産出の花崗岩で作られたが被害者宅から仙川を隔てた遊歩道脇に置かれていた。 地蔵の底と台座上部に「六」の文字のようなものが彫られていた。 指紋は採取されなかった。 特別捜査本部ではこの地蔵の製造・輸入・販売などに関する情報提供を呼びかけている。 被害者宅周辺の当時の状況とトラブル・防犯対策 [ ] の北側入口 被害者宅周辺は祖師谷公園(都立公園)の拡張工事でほとんどの家が転居しており(被害者宅も2001年3月転居予定だった)、事件当時は被害者宅・隣家1軒(被害者の親族宅)・向かい2軒の計4軒の家が残されているのみだった。 そのため、夜の人通りは少なく事件の目撃証言も少なかった。 一家がこの場所に引っ越してきた6月には、住宅が30軒ほどあった。 被害者宅近くにはスケートボードができる広場があり、夜に滑るなどルールを守らないスケートボーダーと被害者宅との間ではでになっていた。 事件数日前にも、スケートボーダーと被害者が揉めていたという目撃証言もある。 そのほか、公園に出入りしていると被害者宅がトラブルになっていたという話もある。 現場周辺では2000年夏以降、を切り取られたりを剥ぎ取られたりするなどの事件が数件起きていた。 事件直前の12月中旬にも1件あった( 毎日新聞 2001年1月18日付)。 被害者宅のポストにはセンサーがあり、人が通ると防犯用ライトが点灯する。 また、玄関の扉の鍵はMIWA製の特殊なもので、鍵穴がドア上部とノブに2つあり、1つの鍵で両方とも開けられる仕組みとなっている。 ドアチェーンもある( 週刊文春2001年1月25日号、3月8日号)。 被害者夫婦に関する情報 [ ] 父親は大学卒業後、の制作に携わりを設立している。 また、の制作にも出題などで関わっていた。 事件当時は英国系の会社(デザイン会社とされる場合もある)で、企業のイメージカラーなどを考案するの仕事に同部門のリーダーとして携わっていた。 父親は事件前日までその日の行動や出費など事細かに日記を書いていたが、トラブルなどに関する記述は見あたらなかった。 母親は1990年12月より方式の塾を隣の姉夫婦の家(当初は自宅)で開設していた。 なお、被害者宅1階にあった塾の書類は上述の通り物色されており、引きちぎられるなどして2階の浴槽に放り込まれていた。 「被害者宅の1階を塾の教室にしていた」という報道もあるが、に隣家の姉夫婦一家が海外に引っ越してからは「隣家(姉夫婦の家)」で教えていたようである(その間、隣家には母親の実母が一人で住んでいた)。 2000年に姉夫婦一家は帰国しており、事件発生時には家族全員が隣家にいた。 なお、母親は姉とともに(当時、2000年8月より)前でもより学習塾を開設していた。 1992年に隣家へ移したのはこの塾という情報もある。 犯人の目撃情報・不審者の情報 [ ] 以下に犯人の目撃情報および不審者の情報を列記する。 事件の犠牲者である母親が「家の前の道路に最近、ずっと車が止まっている」と事件数日前の25日に話していたことを義父が明らかにしている( 朝日新聞 2004年12月26日付)。 事件3日前の27日午前、被害者宅の様子をうかがっている40代半ばの不審な男が目撃されている( 読売新聞 2001年1月3日付)。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ、現場に残されていたトレーナーやヒップバッグ、スニーカーとよく似た服装の若い男が目撃されている( )。 目撃者の主婦によると「この男が12月の末にしては薄着だった」ため、よく覚えていたという。 また、週刊朝日( )によると、この男は事件直前の30日21時ごろにも被害者宅付近で目撃されているという。 事件当日の30日昼すぎに、見慣れない男が被害者と言い争っている姿が目撃されている( 読売新聞 2001年1月1日付)。 事件当日の30日19時と22時ごろ、被害者宅の近くを流れる川沿いの歩道(側道)を歩く、犯人が現場に残していった帽子とよく似た帽子をかぶる35歳から40歳前後の男が目撃されている。 19時の男は被害者宅脇、22時の男は被害者宅と反対側の歩道を歩いていたが、2人の男が同一人物かは不明だという( 産経新聞 2002年12月18日付)。 事件当日の30日22時ごろに被害者宅から公園内を南に約250メートル地点で、白っぽいジャージを着た金髪の不審な若者(17歳〜19歳くらい)が目撃されている。 若者は目撃者の愛犬を睨みつけて通りすぎたという。 事件当日の30日23時35分から40分ごろに被害者宅に通じる路地から飛び出してきて、走り去った25歳から35歳の男が目撃されている。 この男については似顔絵イラストが2004年12月に警視庁より公開されている(詳細は後述の「」を参照)。 2014年12月になって犯人が被害者宅から夜中のうちに逃走した可能性が取り沙汰されているが、31日未明の時間帯ではこれまでに事件現場近くの公園にいた自転車に乗った若い男や止めたバイクのそばに立っている人物などが目撃されており、警視庁はこの時間帯の目撃情報について改めて捜査している( 2014年12月12日報道 、詳細は後述の「」を参照)。 事件当時、現場近くで左手(袖口から甲)に血が付着した男の目撃情報があった。 目撃者の女性は車を運転しているときに、道路へ飛び出してきたその男と軽く接触したという。 しかし、女性が名前などを名乗らなかったためその後の連絡が取れず、目撃した時間帯などについても不明なままである( 2015年3月23日報道 、詳細は後述の「」を参照)。 事件発覚当日の31日に東武日光駅17時26分着の快速電車に乗っていた、右手にが見えるほどの深いを負った30歳ぐらいの男が目撃されており、駅の事務室で治療を受けている( 産経新聞 2002年12月18日付)。 なお、この男については「身長が175センチぐらい、服装は黒いおよび」とされる(「」も参照)。 犯人像・事件の分析など [ ] ()は、本事件の犯人像について、「日本の古典的な一家殺人事件と異なり、被害者と犯人との間で、濃密な人間関係があったとは思えない。 異常な殺しぶりや、現場の乱雑さを見ると、犯人は何らかの恐怖で、に陥った末に、場あたり的に『近くでやれそうな人間をやってしまおう』という程度の計画性・覚悟しかなく、凶行に及んだという線が強い」として、本事件と近い犯罪者心理が読み取れる事件として、犯人がに脅され、心理的に追い詰められた末に犯行に及んだ、(1992年発生)を挙げている。 警視庁の情報公開・捜査状況・関連事実 [ ] 警視庁がマスコミ等を通じて行った当該事件の情報公開、新たに分かった捜査状況、関連事実を記す。 警視庁の情報公開 [ ] 詳細は「」も参照のこと。 2004年 [ ]• - 事件からちょうど100日目の2001年4月9日に被害者宅から仙川を隔てた遊歩道脇に置かれていた、東南アジア産出の花崗岩で作られた地蔵の写真が初めて公開された。 地蔵の底と台座上部に「六」の文字のようなものが彫られており、指紋は採取されなかった( より)。 - 捜査本部は事件に関与している可能性がある不審者のイラストを初めて公開した。 公開されたイラストは、事件発生時刻前後(12月30日23時30分すぎ)に被害者宅近くで目撃された「身長175〜180センチ位、25〜35歳位、やせ型、は少し長め、っぽいジャンパー、黒っぽいの男」と、事件前日の29日に犯行で使用された柳刃包丁と同じタイプの包丁を武蔵野市吉祥寺ので購入していた「身長170センチ前後、年齢30代、黒っぽいジャンパーの男」の2つ( より)。 2005年 [ ]• - 読売新聞によると、特別捜査本部が犯人像を「事件当時、京王線沿線に住んでいた若者(当時15歳以上)」に絞り込んだことを明らかにした。 また、の捜査協力の結果、最近になって「犯人が韓国で育った人間でない」ことを確認し断定。 「犯人が現場に残していったものと同タイプで同サイズ(L)のトレーナーが都内では、4店舗(京王線沿線は2店舗)のみで10着しか売られていなかった」ことも判明し、このトレーナーの購入者のうち現在所有していない人間の中に犯人がいるものとみて、購入者が判明していない残り9着のトレーナーの行方について情報提供を呼びかけている。 呼びかけに応じた人はトレーナーの提出を求められるが、新品で同様のトレーナーを贈呈されることになっている。 なお、トレーナーの販売ルートはさまざまな報道を見ると当初からほぼ特定できていたとみられるが、犯人像とともに今回改めてメディアで公開し情報提供を呼びかけたものと思われる。 - 時事通信によると、怨恨ではなく金銭目的の犯行という見方を強め、犯人像を「当時一人暮らしで、金に困っていた18歳から35歳の男」と絞り込んだことを明らかにした(ただし、普段から外泊に無関心な家庭で生活していた可能性もある)。 当初はトレーナーが何度も洗濯されていたことなどから「家族と一緒に暮らす生活色の強い男」という見方がされており、犯人像がこの5年間で大きく変化している。 - 読売新聞によると、犯人が現場に残したヒップバッグの表面から日本国外のによく溶ける洗剤とみられる成分が検出されたことを明らかにした。 犯人または周囲に「日本国外の渡航歴がある人物」がいる可能性が高いとみられている。 また、警視庁は同日、事件の概要や犯人像の特徴をまとめたカードを全4万人に配布した。 - カードに記載された犯人像約30項目の内容が明らかになった。 新たに分かったのは「酒もたばこもやらない人物」「を読み分ける能力のある人物」など。 犯人は戸棚の引き出しを下から順番に開けて物色するという空き巣特有の開け方をしており、2階の居間のソファにカード類、その近辺には手帳や運転免許証など生年月日の分かる書類などが仕分けされていた。 これはキャッシュカードのを推測するために犯人が物色したものとみられている( 、読売新聞より)。 - 読売新聞によると、洗剤が検出されたヒップバッグ表面の同じ場所から蛍光物質も検出されていたことが分かった。 バッグに付着してしまい犯人が洗い落とそうとした可能性がある。 蛍光物質は製のなどに含まれているものとのことである。 12月30日 - によると、2階子ども部屋の二段ベッド付近や階段で犯人が横歩きをしたとみられる足跡が複数発見されていたことが分かった。 階段では、壁側から手すり側に向かって途中で足跡の向きが入れ替わっていた。 このような特殊な歩き方をしていたことから、犯人が「軍隊の経験者である可能性」もあると見てしている。 また、特別捜査本部はこれまで怨恨の線で捜査していたが、一家に関係するトラブルが見つかっていないことや2階浴室の窓から侵入するという手口、戸棚の引き出しの空け方、ソファに並べられたカード類、現金がなくなっていたことなどから、最近になって「金銭目的の犯行」の線で捜査していることも判明した。 しかし、犯人が長時間被害者宅に留まるなどの行動からや人格異常者の犯行の線も捨ててはいないという。 2006年 [ ]• - 産経新聞およびによると、特別捜査本部は「スケートボードをしている人物」に捜査の焦点を当てていることが明らかになった。 その理由について、以下の点を挙げている。 ヒップバッグから検出された数種類の物質が、スケートボードの滑り止めに使われるグリップテープを削った微粉末の可能性が高い。 ヒップバッグとジャンパーのポケットから検出された砂は、いずれもスケートボードと縁の深い場所(と)の砂である可能性が高い。 黒いハンカチから検出された香水は、1980年代に活躍したアメリカの人気プロスケートボーダーが愛用していた『DRAKKAR NOIR』だった。 被害者宅近くにはスケートボードができる広場があり、夜に滑るなどルールを守らないスケートボーダーには被害者が以前から注意しており、事件数日前にも揉めていたという目撃証言がある。 犯人の服装のうちラグランシャツとヒップバッグは、当時スケートボーダーの間で流行っていたストリートファッションのアイテムである。 - 産経新聞によると、特別捜査本部は犯人像を「系外国人の犯人」または「混血の日本人」と見て捜査を始めたことが明らかになった。 血液のから人間のルーツをたどる的解析によるもので、父系がアジア系民族、母系に系民族が含まれることが判明。 人種に関するプロファイリングが捜査に適用されるのには前例がなく、ずっとさかのぼった祖先が混血だった可能性も否定できないため、「犯人が純粋な日本人である可能性も否定せずに、幅広く捜査する」方針。 - 今年の春頃になってから警視庁に新たな目撃情報が寄せられていたことが判明した。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ、現場に残されていたトレーナーやヒップバッグ、スニーカーとよく似た服装の若い男を目撃したというもの。 最近の情報などから警視庁は「事件当時、現場付近に住んでいてその後に引っ越した若者や日本国外の人」に捜査の焦点を絞っている。 - 特別捜査本部は犯人が現場に残していった黒いハンカチ2枚について新たな情報を公開した。 うち1枚については中心部に約3センチの切れ目を開け、ハンカチの一部を押し込んで袋状にしており、犯行時に包丁の柄を差し込んで滑り止めや返り血を避ける目的で使用したものとみられている。 犯人が事前に細工などをしていることから計画的犯行の線も見て捜査、このような特殊な方法を使うがないか調べている。 ハンカチからは被害者の血液のほか犯人の血液も検出された。 もう1枚については、三角形に折って両端が絞り込まれていたため、バンダナやマスクとして使用したものとみられる( 朝日新聞、読売新聞、東京新聞より)。 また、犯人の血液を詳しく調べた結果、向精神薬や風邪薬などの薬物反応がまったくなくたばこも吸わないことが判明。 2枚のハンカチには洗濯をしをかけた形跡もあった。 これらのことから特別捜査本部は犯人像を「薬物中毒や投薬治療中でなく健康体」、「事件当時、現場付近の比較的裕福な家庭で、家族と一緒に暮していた15歳から35歳の男」と見ている( 朝日新聞より)。 12月30日 - 事件から6年、警視庁特別捜査本部の捜査会議の一部が公開された。 これまでに延べ14万人のが投入され現在も98人態勢で捜査、産経新聞によると、現在は犯人本人より犯人を知る人物や周辺者を中心に捜索しているという。 また、引き続き犯人が外国人やスケートボーダーである可能性、被害者宅が物色され現金がなくなっていたことから金銭目的の犯行、また怨恨による犯行の線なども視野に入れ、幅広く捜査している。 - 現場から長女の血が付着したティッシュペーパーが見つかっていたことが明らかになった。 母親と長女が犯人に襲われたとき1度目は致命傷にならなかったが、負傷しながらも長女の手当てをしていた母親に犯人が気づき、再度致命傷を与えた可能性があるという。 また、現場に残されていた犯人の血液からDNA型を解析した結果、日本人には少ない型とする専門家の意見があることも判明した。 「犯人が外国人や混血の日本人である可能性」も視野に入れて捜査している( 朝日新聞より )。 2008年 [ ]• - 毎日新聞によると、犯人の血痕のDNA鑑定により母方がやの民族の特徴を持つ点、さらに事件現場に残された遺留品などから犯人が外国と関係のある人物である可能性が高いことから、を通じ外国の捜査機関に捜査協力を求めていることが分かった。 これまで韓国や中国に指紋照合を依頼し、欧米の国々にも捜査協力を求めているが、要請に応じない国もあるという。 - 毎日新聞によると、今年3月中旬に犯人が侵入したと思われる被害者宅裏側の2階浴室窓下の公園フェンス付近に花束が置かれていたことが分かった。 家の表側は警察が24時間体制でしていたが、置かれた時点で気づかなかった。 警察は「心あたりのある人は名乗り出て欲しい」としている。 12月30日 - 毎日新聞によると、8月ごろに行った特別捜査本部の検証で犯人が現場に残したトレーナーやヒップバッグに付着していた赤色系の蛍光剤とほぼ同一成分の蛍光剤が、1階車庫周辺からも発見されていたことが判明した。 車庫は事件当時シャッターが閉まっており、現場に残された犯人の足跡などの形跡が発見されていないことから、「事件前に犯人や犯人と関係ある人物が現場を訪れた可能性、被害者と犯人に交流があった可能性」も視野に入れ、蛍光剤の流通経路や被害者の交友関係を調べている。 12月31日 - によると、犯人が被害者宅に残したヒップバッグから微量の砂(を含み、西部の砂漠地帯の砂と酷似している物)と1億4000万年以上前の放射性物質モナザイト(の花崗岩にも含まれているもの)が検出されたが、鑑定の結果それらの遺留物はカリフォルニア州に由来する可能性があることが分かり、特別捜査本部は70人態勢で被害者の勤務先や出身学校の関係者、事件当時、現場周辺に住んでいた人物らにをし、「カリフォルニア州への渡航歴がないか重点的に捜査」している。 2009年 [ ]• 警視庁は事件現場から発見された蛍光剤が3種類の粉末蛍光染料であることを公表した。 警視庁ではこの3種類の染料を同時に扱う場所の情報提供を呼びかけている。 以下に情報をまとめる( 、ニュース、毎日新聞、朝日新聞、、より)。 染料はおもに国内2社が商品化する「ローダミン」(ローダミンB、同6GCP、同6GCP-N)、あるいは「バソニール」(バソニールレッド540、同482、同485)で、粉末状では緑色(赤茶色という報道もあり)で水に溶かすと赤やピンク系になり、ブラックライトで蛍光発色する。 なお、染料のネームはそれぞれ「ベーシックバイオレッド10」「ベーシックレッド1」「ベーシックレッド1:1」である。 染料は上述のメーカーが顔料やインキなどに加工して販売するため、一般に出回っていない。 おもに紙や布、木綿などの繊維のほかに、プラスチック製品、漫画本、包装、広告、顔料やインクの製造、蛍光ペン、油絵の具材、レーザーの研究、工事現場(コンクリートの亀裂チェック)などでも使用される。 「3種類共に使用するのは一般的でないため、染料・塗料を扱う専門業者や工場、製紙メーカー、研究施設、舞台関連の制作業者、デザイナーなどの可能性が高い」と見ている。 被害者は大学時代には劇団サークルに参加しており、事件の直前にも企業のイメージカラー作成やイベントプロデュースなどの仕事に関わっていたが染料に関する専門知識がなく、「被害者自身が仕事などで使用していた形跡もない」という。 染料は犯人の遺留品であるトレーナーから2種類、ヒップバッグの内側や犯人が犯行時に侵入した形跡のない車庫内の木製の収納具から3種類発見されている(犯人が触れた形跡のない被害者宅の棚の中から染料が検出されているという報道もあり。 このことから、「事前に被害者宅を訪れたことがある人物か被害者と接点があった人物の可能性が高い」と見て捜査している。 犯人が事件前に被害者宅を訪れた理由について、「被害者と染料選定の打ち合わせをしていた可能性」などを視野に入れている( 東京新聞より)。 犯人の遺留品であるジャンパー(事件の1ヶ月前から販売されたもの)のポケットから発見された鳥の糞は以外の植物の種皮や、土砂などを含んでいないことから飼育されていたより小さい種類の鳥のもの、葉片は(当初)ヒメザクロと思われていたが、DNA鑑定の結果、ケヤキとヤナギ(シダレヤナギ以外)であることが明らかになった。 また、三浦半島の砂は馬堀、北下浦、三浦の3か所いずれかの海岸のものであることも明らかにした。 このため、「犯人や犯人の周辺人物が犯行直前に三浦半島を訪れたとみて、同半島周辺に捜査員を派遣」して聞き込みを行っている( 毎日新聞、朝日新聞、産経新聞より)。 遺留品のヒップバッグから発見された米国西部カリフォルニア州の砂は、約3万5,000km 2に及ぶモハーヴェ砂漠南西部にあるエドワーズ空軍基地付近のものであることも判明した。 同基地東部の砂は特徴的なものであり、バッグ内の砂と酷似しているという。 このことから、「犯人や犯人の周辺人物が同基地付近を訪れた可能性がある」と見て捜査している( 東京新聞より)。 - 被害者は大学時代には演劇、著名な人形作家の下で人形アニメ製作に参加、その後、知人と映画や漫画を製作する会社を立ち上げ、映画撮影の現場に出入りするなどしていた。 事件の直前にも旅客機の模型に塗装する仕事などをしており、塗料との関わりはいくつか浮上しているが、現場に残された染料と被害者、犯人の接点は浮かび上がっていない( 毎日新聞より)。 「O3eスター型」の割合は日本人の約13人に1人、中国人の約10人に1人、韓国人の約5人に1人にみられる。 南欧系の祖先は歴史的に見て遠くない祖先の可能性が高いが、DNA型から犯人との続柄は判別できないため、犯人の母親が南欧系の女性かは不明。 また、古い祖先が南欧系の可能性も否定できない( 、産経新聞 より)。 2010年 [ ]• - 現場に残されたトレーナーにシリコーンオイルという化合物の成分がついていたことが新たに分かった。 トレーナーからは粉末状の蛍光染料も検出されている。 シリコーンオイルは潤滑油や化粧品の原料などとして幅広く利用されているが、の色むらをなくしたり、演劇の舞台装置を作る際などの発泡スチロールの加工にも使われている。 被害者が事件当時、企業のシンボルカラーを決める仕事をしており、また学生時代には演劇活動をしていたことからその関連性や、シリコーンオイルや蛍光染料を仕事などで扱う人物が事件に関わっている疑いもあるとみて捜査をしている( NHKニュースより)。 - 手がかりとなる染料の捜査のため、の化学メーカーに捜査員を派遣していたことが分かった。 犯人の遺留品と被害者宅から見つかった3種類の赤色系蛍光染料のうち、2種類は同じ色の旧来品と後発品で、後発品の方が流通量が少ないため、その製造元からたどる捜査が開始され、協力は得られたが先が膨大で10年前の販売記録はほとんど残っていなかったため、国内の化学会社や染料の卸業者などでの取り扱いの動向を調べている。 被害者宅で染料が検出されたのは、車庫にある工具やカー用品などが入っていたとみられる木製棚の引き出しで、染料が付着していれば蛍光を示すライトで被害者宅や隣の親族宅が調べられたが、木製棚以外からは検出されていない( 時事通信より)。 - 2階の居間に残されていたヒップバッグの中から、長さ数センチで色は黒い毛髪が見つかっていたことが分かった。 毛髪のDNA型を鑑定したところ、現場に残された犯人のものと一致した。 また、現場からなくなっていたとされる2000年正月に届いた被害者一家宛ての年賀状は、捜査員が聞き込み捜査のために翌日までに返す約束で持ち出し、そのまま返却されていなかったことが判明した。 犯人が被害者一家との接点を隠すために処分したとみられていたが、初期段階での捜査の混乱が浮き彫りになった( 産経新聞より)。 2階の居間のソファにクッションが置かれるなど犯人が仮眠を取った形跡が残されていることが分かった。 被害者夫婦は几帳面な性格であり、そのまま放置したとは考えられにくいという。 また、パソコンが短時間だけ使用された午前10時には向かいの家に宅配のが来て被害者宅方へバックしていたといい、トラックの音で慌ててパソコンの電源を抜いた可能性も指摘されている。 道路に面する窓のには外を見ようとしてめくり上げたとみられる形跡も残されていた。 さらに、犯人は被害者宅でトイレを使用しており、残されていた大便からは野菜の胡麻和えが発見された。 被害者一家の胃の内容物や食事とは異なっている( 時事通信より )。 現場から見つかった遺留品が事件当時、神奈川県厚木市内の小田急線本厚木駅周辺などで購入可能だったことが判明した。 トレーナーは都内で販売が確認された店舗と同じ販売会社である厚木市内の店舗で3着が販売されていたことが判明(購入者は特定できていない)。 他、柳刃包丁やヒップバッグ、帽子、ハンカチ、手袋などマフラー以外の物も本厚木駅付近の衣料品店や金物店で扱われていたことが判明した。 また、同線の相模大野駅周辺ではトレーナーとマフラー以外の物が購入可能であった事も確認された。 被害者宅から約1. 8キロである同線の成城学園前駅から本厚木駅までは直通電車で約35分であるため、犯人の生活拠点が事件当時厚木市内であった可能性もあるとみて、本厚木(厚木市)、相模大野(相模原市南区)、登戸(川崎市多摩区)で20万枚のビラを配り情報提供を求めている( 時事通信、毎日新聞、産経新聞より)。 - 被害者4人の発見時、全員の顔に服や布団がかけられるなどして顔が隠れた状態であり、犯人が見えないように隠した疑いがある事が判明した。 顔を隠すのは犯人が顔見知りだった場合に多いことから、被害者の交友関係などを改めて捜査している。 母親(当時41・2階踊り場で発見)の顔にはたんすから物色されたとみられる洋服がかぶせられていた。 長女(当時8・2階踊り場で発見)は母親の脇でうずくまるように顔を下に向けていた。 長男(当時6・2階寝室で発見)はベッド上で頭から布団がかけられていた。 父親(当時44・1階の階段付近で発見)は机の引き出しが乗せられていた。 他、室内に色彩の専門書があったことも判明した( 時事通信より)。 2011年 [ ]• 12月19日 - 犯人が現場に残していったものと同タイプのトレーナー(LサイズおよびMサイズ含む)全130着の販売店舗(14都道府県41店舗)が警察の捜査により2011年12月までに判明、このうち52着が静岡県、22着が長野県での販売となっている。 また、130着のうち現在までに購入者が判明しているのは12着のみとなっている。 このため、犯人が静岡県内で購入した可能性も視野に入れて、都内でトレーナーや帽子などの遺留品が販売されていたJR荻窪駅のほかJRで初めてビラを配るなど情報提供を呼びかけている( 毎日新聞 、共同通信 より)。 汗などの付着物の鑑定により被害者宅のから犯人のDNA型が検出、現場に残されていた足跡からはスリッパの跡がないため、被害者と面識のある犯人が事件当日ではなく事前に被害者宅を訪れ、スリッパを使用した可能性があると見て捜査している。 一方で、犯人は一家殺害後に被害者宅の冷蔵庫の中にあるものを食しながら長時間現場に留まるなど、通常では考えられない異常な行動もみられることから慎重に捜査を進めている( 産経新聞 より)。 犯人の遺留品であるトレーナーの胸付近に付着していた微量の染料二種類について、捜査関係者の話により新たな事実が判明している。 染料は水に溶けるとピンク色に発色し繊維などの染色に使用されるもので、肉眼では付着は視認できず特殊なライトを当てることで確認できるものである。 トレーナーには何度も洗濯した形跡があるが一方でこの染料には溶けた形跡がないため、染料が付着した後には洗濯が行われていない可能性が高い。 このことから事件直前にトレーナーに染料が付着したものとみて、捜査本部では仕事や趣味などで染料を扱っていた人物に焦点を当てている( 時事通信 より)。 2012年 [ ]• 12月24日 - 犯人が被害者と顔見知りの可能性が指摘される最大の根拠として、犯人の遺留品(トレーナーやヒップバッグ)と犯人が事件当日に入った形跡のない被害者宅の車庫の双方に残されていた同一の蛍光染料が挙げられるが、車庫の染料については木製の収納具に収められていたわけではなく、車庫奥の(箱などが置かれた物置スペースで)横倒しになった棚の引き出しの底に「付着している程度」であったことが報道で明かされている。 捜査本部の見解として、事件以前に被害者と犯人が車庫の暗闇で蛍光染料を確認し合った際、地面を汚さないために下敷きとして置かれた引き出しに染料の一部が付着した可能性が指摘されている( NHK『』 より)。 2014年 [ ]• 12月12日 - 犯人がパソコンを操作したとされる時刻のうち、31日午前10時すぎのもの(2度目のネット接続)についてはパソコンの誤作動の可能性が高く、夜間のうち(1度目のネット接続があった午前1時18分ごろより後)に逃走した可能性があるとして、これまでの事件翌日の朝まで現場に留まっていたとする捜査方針を軌道修正している。 これは再現実験を行った結果、マウスが落下するなどの衝撃でパソコンが自動的に接続されることが判明したことによる。 また、31日未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ている。 さらに未明の目撃情報として、自転車に乗った若い男(現場近くの公園)や止めたバイクのそばに立っている人物などがこれまでの捜査で挙がっており、犯人が車などで逃走した可能性もあることから警視庁ではこの時間帯における目撃情報について改めて捜査している( NHKニュース 、読売新聞 より)。 - 遺留品や靴のサイズから推定し、犯人の身長を175センチ前後として情報提供を呼びかけていたが、ヒップバッグのベルトの全長から推測した結果、犯人の身長がより小柄な170センチ前後である可能性が出てきたとして、情報提供を求めるチラシの情報を修正している( 朝日新聞 より)。 2015年 [ ]• - 事件当時、現場近くで血が付着した男の目撃情報があったことが明らかとなった。 目撃情報は「左手の袖口から甲にかけて血のついた男が道路を飛び出してきて、自分の車に軽く接触した」という女性のもので、その女性が自分の名前などを名乗らなかったためその後の連絡は取れておらず、目撃した時間帯などについても現時点で分かっていないが、犯人の逃亡時間と推定される31日未明の目撃であった可能性もあることから、警視庁はこの情報を重要視して捜査を進めると共に改めて情報提供を求めている( NHKニュース 、日テレNEWS24 より)。 - 犯人の親指の指紋(渦状紋)には、その中心に2本の線が入った「豚の鼻」のような特徴があった( JNN系 TBS Newsi 、産経ニュース同月27日付 より)。 - 犯行時刻から数時間後と思われる31日未明の午前3時半ごろには、被害者宅の明かりが消えており人の気配も感じなかったと近所の人が証言していることが明らかとなった。 さらに、午前4時ごろには暗かったという別の証言も存在するという。 捜査本部では犯人が被害者宅を物色し、パソコンの操作などを行っていた午前1時すぎまでは明かりがついていたとみていることから、その後の午前3時半までの間に逃走した可能性も視野に入れて捜査している( 朝日新聞 より)。 - 首を絞められ殺害されていた長男の布団から、犯人の血痕が見つかっていたことが明らかとなった( 読売新聞 より)。 捜査本部のこれまでの見立てでは長男は一家の中で最初に殺害され、首を絞められたことに因る圧迫痕や鼻からの出血以外に外傷などはなかったとされている(「」も参照)。 2018年 [ ]• - 犯人の遺留品のうちに付着していた塗料について、捜査本部では「などを入れていた跡であった」と断定。 さらにヒップバッグの内容物(学生時代によく使用される前述の蛍光ペンなどの痕跡)に加え、販売時期(1995年9月〜1999年1月)やベルトの長さ(長さ83センチで胴回りは70〜75センチと推定)、のサイズ(長さ約130センチで10代半ばの平均的な首回りにフィット)などから、捜査本部が犯人像を「事件当時15歳から20代 の細身の男性」に絞ったことが明らかとなった( 読売新聞 、テレ朝news 、毎日新聞 、時事通信 より)。 捜査本部はに新たな犯人像などの情報をでも公開(同サイト内の「」を参照)し、情報提供を呼びかけている。 - ヒップバッグの内側からは犯人の血痕とDNA型も一致している黒っぽい毛髪が発見されているが、捜査本部はこの毛髪の長さについて約2. 5センチとなどで刈られた約1. 5ミリの2本であることを明らかにした。 また、犯人の足跡から判明した韓国製スニーカー「スラセンジャー」(27. 5センチ)の3D画像も捜査本部のサイトで公開。 同サイズのものは日本国内において正規ルートでの販売が確認されていないことも明らかにし、犯人が韓国で購入したか並行業者から購入した可能性などにも視野を広げ、情報提供を呼びかけている( 時事通信 ほか)。 捜査本部は同日、毛髪やスニーカーの情報をでも公開している(同サイト内の「」および「」を参照)。 2019年 [ ]• - 現場で発見された凶器の包丁の柄を包んでいたとみられるについて、北部の一部地域(と)における儀式・狩りの際や軍人、などが刃物を包む方法に似ていることが明らかとなった。 犯人が「フィリピン北部に住む人間」の可能性も考えられるため、ICPOを通じ情報収集を進めている他、現地に捜査員を派遣することも検討している( 朝日新聞 、産経ニュース 、まいどなニュース ほか)。 不鮮明な情報 [ ] 以下に記載するのは、過去にマスコミで取り上げられたものの、事件との関連性が不鮮明な情報である。 事件発生の前後、現場付近から京王線近くまで3人組の男がに乗車したが、降車後の座席シートにが残っていた( 毎日新聞 2001年1月2日付)。 ただし、後の報道で「現場で発見された犯人の血痕とタクシーのシートに付着していた血痕の照合を進める」( 毎日新聞 同月4日付)としており、照合した結果、犯人のものではなかった可能性も高い。 また特別捜査本部による鑑定の結果、タクシーの座席に付着していた大の血痕と思われたものはであったとする報道もある。 事件発覚当日の31日、浅草駅発・東武日光駅17時26分着の快速電車に乗っていた30歳ぐらいの男が右手に骨が見えるほどの深い怪我を負っており、駅の事務室で治療を受けていた( 産経新聞 2002年12月18日付)。 捜査員を栃木県日光市に派遣したのは事件からだいぶ経過した2001年10月に入ってからのことであり、有力な情報が得られず現在もその後の足取りがつかめていないことは、2006年末の週刊朝日の記事で触れられている(詳細は「」を参照)。 事件から数日経って右手に怪我を負った男が病院で治療を受けていた。 のちに「事件から3日後、右手の親指と人さし指の間を切って都内の総合病院に訪れた22歳の男は捜査の結果、事件とは無関係だった」( 産経新聞 2001年12月27日付)という報道もあり、これは上述の「怪我を負って病院で治療を受けた男」のことを指しているものと思われる。 さらに、22歳の男については「過去に被害者宅に出入りしたことがある」とも報道されている( 産経新聞 2001年1月10日付)。 ただし、「同日にも警察がを行い、犯人の血液型と照合する」とも同時に報じられており、事件と無関係なことが断定されたのはこの結果によるものと思われる。 その他の関連事実 [ ]• - 過去に成城署特別捜査本部で当事件の捜査活動をしていたが、捜査報告書に自分や妻の指紋を添付して実際には面識のない住民数十人から指紋を採取したように装うなど虚偽報告をしていたことが明らかになった( 時事通信 同日付)。 侵入から殺害方法、犯人が自ら行った治療行為、パソコン操作、逃走方法、被害者の行動、遺留品、指紋についての記述など10項目が「ことごとく事実と異なり、誤解を生じさせ今後の捜査にも悪影響を与える懸念がある」と異例のコメントを発表した。 この本の内容は多くのメディアからも厳しく批判された。 本文中に被害者の母親の言葉が出てくるが、母親は著者の取材に応じていない( 週刊朝日 2006年7月21日号)。 そもそもの出版企画は、元記者のがに持ち込んだもので、最初の原稿では「を使って玄関から侵入」と記述されており、基本的な事実関係すら間違っていた。 社長が「殺害方法にリアリティがない」と指摘すると、後になって詳細を書き加えてきたため、出版を見送った( 2006年7月20日号)。 - 当該事件やその他の未解決事件の現場にする張り紙や写真を貼りつけた男が違反(はり札の禁止)の容疑で警視庁にされていたことがわかった。 男は当該事件のほかにも「全国で15件ぐらいの事件現場に同様の行為をした」と供述している( 朝日新聞 同日付)。 9月 - 世帯主の父親が肺炎のため入院先の病院にて84歳で亡くなった。 8月 - これまで保存されてきた事件現場の建物は、老朽化のために取り壊される見通しであることが関係者への取材で判明した( TBS『』 2014年8月18日放送)。 過去には2012年ごろにも取り壊しの話が出たが、当時の警視庁・刑事部長が難色を示したことから免れた経緯がある。 なお、事件現場の建物については捜査活用目的で建物内部まで再現した3Dプリンターによる模型が製作されており、警視庁が2013年12月に公開している。 12月 - 前年(2014年)末に放送されたの番組に対し、の侵害などがあったとして遺族が(BPO)に申し立てを行った。 番組に出演した遺族が、犯人につながる具体的な発言をしたかのような過剰演出および恣意的な編集などがあったといい、過去に7回謝罪とを求めたが解決には至らなかったという。 これに対してBPOは、遺族の社会的評価がただちに低下するとは言えず「にはあたらない」としながらも、番組の内容については公正さと適切な配慮を著しく欠いており「放送上重大な問題があった」とする勧告を9月に出している。 11月 - 上記2014年8月の件に関連する話として、現場の建物を取り壊すか否かを警察が遺族側に打診し協議していることが明らかとなった。 1月 - さらに上記2019年11月の件に関連し、遺族の1人である入江杏は4人が一生懸命生きた現場の空気を感じて欲しいと、事件現場となった家屋の内部を一部のメディアに初めて公開した。 懸賞金 [ ] 警視庁は2007年12月14日より当該事件を(公的制度)の対象事件に指定した。 事件の解決、犯人の逮捕に結びつく有力情報の提供者に最大300万円の懸賞金が支払われる。 2010年12月16日以降は「事件の捜査に協力する会」により私的懸賞金最大700万円も用意され懸賞金は合計最大1000万円となったが、2014年12月にはさらに私的懸賞金が1000万円増額され、犯人逮捕につながる情報には 合計最大2000万円が支払われることとなっている。 なお、捜査特別報奨金制度の適用期限は1年単位での更新となっており、2008年12月までの期限以降、毎年延長されている。 詳細は「」を参照。 事件の影響 [ ] 設置された通報装置 この事件は在宅中の一家全員を殺害するという残虐な手口から世間の注目を集め、当事件の周辺地域に限らず各家庭の防犯意識を高めた。 また、この事件を機に世田谷区が街のや緊急時に警察へ通報できるスーパー(緊急通報装置)の設置を促進した。 特に防犯カメラは事件が減少するなどの効果が得られ、実際に事件の解決にも結びついている。 遺族会の結成と公訴時効廃止議論 [ ] 当事件の遺族は別の事件の遺族らと連携して殺人事件に関するの停止・廃止を目標に、、「、通称宙の会(そらのかい)」を結成した。 には、やなど法定上限がにあたる罪の公訴時効廃止などを盛り込んだ(およびの一部を改正する法律(平成22年法律第26号))が成立・施行し、同団体のおもな目的が達成された。 公訴時効の廃止は、当事件を含めて、改正の施行時に公訴時効が完成していなかった過去の事件にも適用されている。 改正法施行までの経緯 [ ] 宙の会のほかにも、11月、(あすの会)も殺人や強盗殺人など重大事件における時効廃止を求める決議を行うなど、事件の遺族による「時効停止・廃止」を訴える声、世論の関心も高まってきていた。 これに対しては、2009年5月にはが始まるのを受け、時効制度においても国民の視点で分かりやすく提示する必要があることも理由にして、殺人や強盗殺人など重大事件に限り、公訴時効の期間延長(数十年単位)や廃止、遺族の訴えで時効の進行を停止できる制度の設置なども視野に入れて、勉強会を開き検討していくと2009年1月に表明した。 2010年、殺人罪や強盗殺人罪など法定上限が死刑にあたる罪の公訴時効廃止などを盛り込んだ刑事訴訟法改正案がで。 4月27日には同改正案が可決成立し、即日施行された(施行までの経緯の詳細は「」も参照)。 宙の会がしていたその他の主張 [ ] 公訴時効の停止・廃止のほか、飛躍的に向上したDNA鑑定技術によりほぼ100%個人を特定できる(他人を犯人と誤る確率は非常に低い)ことから、犯人のDNAが特定されている事件の場合、DNAにを与え()できるようになどの制度改正も訴えていた。 これは、公訴時効が廃止された場合でも、法律改正以前の事件には適用されない可能性があったためである。 週刊誌などの情報 [ ] この事件は重大な未解決事件のひとつであるため、週刊誌などではさまざまな情報が錯綜している。 ここでは新聞などでは報じられていない週刊誌などの情報を記していく。 しかし、これらの情報の信憑性は定かではなく疑問点が多いものも少なくない。 新潮45 [ ] 侵入方法についてはシリンダーに細かな傷がついていたことから、特殊なナイフで解錠して玄関から被害者宅に侵入している。 また、犯人がゴムという軍隊などで使われる特殊な止血剤や、麻酔作用のあるを使用していた( 2002年1月号)。 警察の鑑識OBに依頼したところ、在住の男性の指紋と、現場に残されていた犯人の指紋が合致した。 韓国では全国民に指紋の登録が義務づけられている。 は韓国人の指紋と照合して誰とも一致しなかったとしているが、実際には日本からの捜査協力が韓国政府に拒否されている( 一橋文哉 2002年1月号)。 なお、この記事が掲載されて以後、警視庁の情報公開により犯人が「韓国で育った人間」ということは否定されている( より )。 ただし、そのことも最近になって判明した( 2005年時点の先の情報公開による)とのことで、これ以前における捜査協力拒否の真偽は定かになっていない。 週刊文春 [ ] 被害者宅のポストにセンサーがあり、人が通ると防犯用ライトがつく。 また、新聞配達員が31日早朝に新聞のを配達したときには玄関の電気は消えていた。 一方で、被害者母親の実母が現場を訪れたときには電気がついていた( 2001年1月25日号)。 玄関の扉の鍵はMIWA製の特殊なもので、鍵穴がドア上部とノブに2つあり、1つの鍵で両方とも開けられる仕組みとなっている。 ドアチェーンもある( 2001年3月8日号)。 事件発生数か月前の2000年8月と10月の2度にわたり、「アオキノブオ」という名前で埼玉県の調査事務所に被害者一家の身辺調査の依頼があり、依頼主は調査事務所から被害者宅の住所、被害者夫妻の(なし)を受け取った。 本籍の記載もある住民票の取得依頼もあったが、連絡が途絶えたため調査はされなかった( 2002年1月24日号、1月31日号)。 父親の死因は心臓・大動脈損傷による失血死。 長女は生前にと外傷性を起こしていた可能性がある( 2003年5月1日、1月8日号)。 2009年1月1日・8日新年特大号 以下の新事実とともに、初動捜査終了後の第一期捜査期間の混乱と現在も尾を引く影響、捜査指揮体系の問題、指紋捜査に執着する弊害、女性被害者に対する犯人の残忍な手口を取り上げている。 推定犯行時刻直後(30日23時半すぎ)、車を運転していた目撃者が被害者宅付近の路地から飛び出してきた若い男を目撃。 それから1年後、偶然にでこの若い男に似た男とすれ違い、特別捜査本部に連絡したが真面目に取り合ってもらえなかった。 侵入口は2階の浴室とされるが、出入りしたはずの浴室の小窓から繊維痕がまったく検出されていない。 また、靴の跡(足跡)も浴室からは発見されておらず、廊下からいきなり始まっている。 さらに、現在は否定されているが、初期には侵入口候補のひとつとみられていた玄関は、発覚時に駆けつけた警察や救急隊員によって、踏み荒らされてしまっていた。 現場に残された犯人ののDNAから、犯人は「のアドリア海沿岸民族の母系遺伝子を持つ人物」であることが判明しているが、第一線の本部員や多くのらには知らされておらず、本部の一部にしか情報が行き届いていない。 日本国外に犯人がいる場合、国内で行うの意味がなくなってしまうので、「外国人犯行説には強い拒否感」があるためである。 ICPOを通じ、日本国外の捜査機関に指紋照合などの捜査協力を求めているが事件の進展にはあまり期待は持てず、そのため、犯行説についても特別捜査本部の幹部らは強い関心を寄せていない。 また、バッグから「アメリカの砂」と酷似した砂が発見されており、特別捜査本部の幹部が2007年から2008年にかけて数回極秘に渡米しているが、捜査が終了しているにもかかわらずこちらの結果も第一線の本部員らには通達されていないままである。 軍隊経験者やグループの犯行という線は現在は完全に否定されている。 長男や父親はすぐに殺害されているが、女性被害者である母親や長女はすぐには致命傷を与えず、で顔面をえぐるなど何度も切り裂いている。 その後、犯人は一度その場を離れ台所にあった別の包丁を手に取り、重傷を負いながらも娘の治療を行う母親を目にして再び2人に襲いかかり殺害した。 週刊ポスト [ ] 現場で発見されている砂やテニスシューズなどから犯人は韓国やアメリカと接点がある人物の可能性が高い。 被害者夫婦が入会していたのようなの本部がアメリカにあり、日本と同じような支部が韓国にもある。 その組織が事件に関係している可能性がある( 2004年10月1日号)。 FLASH [ ] アメリカでに容疑で逮捕されたの供述により、事件を指揮したアメリカ・の男が判明。 男は別の強盗事件で5,000ドルのが懸けられ、されている。 また、男は事件の実行犯らが事件の翌日には日本を離れたと周囲に話しているが、この男ならその出国先も知っているはずである。 にもこれらの情報はFBIから直接渡っている。 被害者との接点について、男は事件前にアメリカにがあるヘッドハンティング会社の支店に勤めており、被害者はその会社に希望者として登録をしていた。 そこで、被害者宅の情報や状態などを知り、犯行に及んだのではないか( 2006年8月1日号)。 週刊朝日 [ ] 週刊朝日( 2007年1月5日・12日合併号)によると、新事実として以下の事柄を挙げている。 近所の住人が犯行時刻前後の23時30分ごろに聞いた「ドスンドスン」という大きな音は、犯人が2階踊り場にあったロフト(屋根裏部屋)へのハシゴを上げた音。 犯人が被害者宅のパソコンで閲覧したのは1度目(午前1時18分ごろ)が劇団四季のサイトなどで、逃走直前の2度目(午前10時ごろ)が被害者主人の会社のサイトなど。 被害者宅の缶から犯人の指紋や血液が採取されたが、警視庁の指紋自動識別システムで1000万人以上のデータと指紋照合を行ったが該当者は出なかった。 産経新聞の既報どおり、犯人の血液からDNAの人類学的解析で民族の鑑定は行われたが、現場に残されていた血液の状態がよくなかったため失敗に終わった。 産経新聞は鑑定作業に昔関わっていた研究者からの仮説情報をそのまま科学的根拠があるかのように報じてしまった。 警察は事件発生時刻直後の30日23時35分から40分ごろに現場付近から走り去った男の情報に囚われるあまり、のちにパソコンの通信記録から翌朝逃走したことが判明した犯人の目撃情報などを十分に捜査できず、初動捜査で大きなミスをしてしまった。 31日17時20分すぎに東武日光駅で、右手に深い怪我を負って駅の事務室で治療を受けていた30代の男についても、捜査員を派遣したのが1年後で有力な情報を得られず、現在も行方はわからないままである。 事件現場から1. 5キロ離れた小田急線成城学園前駅近くで、事件前日の29日15時ごろ目撃された犯人の服装とよく似た若い男は、実は事件直前の30日21時ごろにも被害者宅付近で目撃されている。 インターネットの書き込み [ ]• のペット大嫌い板(現・生き物苦手板)で、2000年の17時3分ごろ、当該事件の犯行予告ではないかと思わせるような書き込みがあった。 また、その他にも犯行前後の2000年12月26日および翌年1月4日において「」と「実行犯」がネットで連絡していたのではないかと騒がれた書き込みもあった(それぞれ「J9」「H」と名乗っていた)。 関連書籍 [ ]• 』()• 警視庁捜査1課の光真章課長は「内容がことごとく事実と異なっており、捜査に悪影響を及ぼす」などとする異例のコメントを発表した。 『世田谷一家殺人事件の真実』()• 竜崎晃『Kの推理 世田谷一家殺人事件 上智大生殺人放火事件』()• 『世田谷一家殺人事件 15年目の新事実』() 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• パソコンのネット接続履歴から犯人が翌朝まで10時間以上に渡って事件現場に留まっていたとみられていたが、2014年12月時点では31日の朝10時すぎの接続履歴が誤作動によるものと考えられており、夜間のうちに逃走した可能性が高まったとして捜査方針を修正している。 2015年3月22日に放送されたNHKスペシャル『未解決事件 追跡プロジェクト』では、指紋は全部で9箇所から発見されたことを紹介している。 ISOGG 6月27日更新版 ver. 170 の表記に基づく。 ただし、では、一日も早い事件の解決を願い、このトレーナーを当時販売していた会社の厚意と協力で、該当する4店舗の店名を公表している。 警視庁特捜本部の「 」ではとなっている。 書き込み元のスレッド『』の31・33番(事件前の2000年12月26日)および40・41番(事件後の2001年1月4日)にその形跡が残されている。 33番の投稿から丁度一ヶ月後(2001年1月26日)の、同一名義(H)による62番の投稿では33番の投稿と同一のIDが復活しており、H名義で投稿された34番(スレッドのテーマである作品の一ヒロイン名が書き込まれてあり、このヒロインは一家惨殺に遭っている設定)の電子メールアドレス欄には33番のIDが署名されている。 参考:(Conspiracy Watch)、(阿修羅、 2001年2月28日付より) 出典 [ ]• 記事名に被害者の実名が使われているため、その箇所を伏字とした。 MSN産経ニュース 2010年12月20日 2010年12月22日, at the. 朝日新聞 2014年12月12日• (探偵ファイル)• (警視庁成城警察署「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」 特別捜査本部)• (警視庁成城警察署「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」 特別捜査本部)• 「」 毎日新聞 2012年12月30日東京朝刊• 『東京新聞』2001年1月14日朝刊特報面16面「こちら特報部 世田谷事件から2週間 検証・一家殺害(上) 『覚悟なき凶行』 際立つ凄惨さ 『動機と残虐性 大きくかい離』 捜査員『あまりのむごさに涙が出た』 過去の事件『濃密な関係の被害者と犯人』」• 「世田谷一家殺人 事件後現場近くに置かれた地蔵を公開」 毎日新聞、2004年10月15日付• 「東京・世田谷の一家殺害、不審者2人のイラスト公開」 読売新聞、2004年12月9日付• 「世田谷一家4人殺害、犯人のバッグから外国洗剤の成分」 読売新聞、2005年11月21日付• 「犯人「漢字読む能力」、書類物色の跡 世田谷一家殺害」 朝日新聞、2005年12月10日付• 「母親が介抱?ティッシュに長女の血 世田谷一家殺害事件」 朝日新聞、2006年12月31日付• 毎日新聞 2011年12月20日 [ ]• MSN産経ニュース 2011年12月29日 2011年12月29日, at the. NHK『ニュースウオッチ9』 ピックアップ [ ]• 朝日新聞デジタル 2014年12月21日• (朝日新聞デジタル 2015年12月28日)• (読売新聞 2015年12月29日)• (朝日新聞デジタル 2019年12月13日)• (産経ニュース 2019年12月13日)• (まいどなニュース〈〉 2019年12月14日)• (産経ニュース 2015年12月29日)• (朝日新聞デジタル 2015年12月14日)• (朝日新聞デジタル 2016年9月12日)• (東京新聞 2019年11月16日)• (朝日新聞デジタル 2020年1月18日)• (日本経済新聞 2020年1月18日)• ( 2020年1月18日)• (警視庁)• 2典Plus「」、書き込み元のスレッド『』の170番 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキニュースに関連記事があります。

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